精神科学自由大学・会員への通信/ルドルフ・シュタイナー

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008, Dornach, S.152-159

翻訳:石川恒夫

精神科学自由大学
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft

1 会員への通信 1924 年 1 月 20 日 /ルドルフ・シュタイナー

アントロポゾフィー協会は、クリスマス会議の意図が実現されるように、将来にわ たって協会の会員によるエソテリックなものへの探求ができる限り充足されなけれ ばなりません。普遍(アントロポゾフィー)協会はシューレ(学び舎)に三つのク ラスを設けることによって、この充足に向かおうと思います。 精神を認識することの本質にあるのは、精神認識が、精神を直観することへの道を 知る個人によって見出される諸成果をもって人々に向かうことです。もし、このよ うな諸成果が、それを自分自身で見出すことが可能な人によってのみ認知されると 思うとすれば、それは偏見です。このような諸成果を認知する人は、盲目的な権威 への信仰に身をささげているという別の偏見を引き起こします。この偏見が主張さ れることで、あたかもそれが指導的な人物に対する判断力のない崇拝者から成り立っ ているかのように思い、人はこのようなアントロポゾフィー協会を非難します。し かし絵画の美しさを感じ取るために自分自身が画家になる必要はないように、精神 の探求者が語る幅広い領域の内容を理解するために、自ら精神の探求者である必要 はありません。彼(精神の探究者)は自身が持っている能力によって、精神の本質 が生き、精神的出来事が生じている世界の前に進み出ているのです。彼はこの精神 的本質と出来事をよく見て、さらにその本質と出来事が、精神的なものから物質世 界に下りてくるのかをも見ているのです。 彼はそうして、自身の特別な才能に依存することなく、彼の直観の領域を、むしろ 通常の意識で事足りる理念へ形成する更なる課題を担います。この理念は、その理 念を自分の魂の中で生き生きとさせている誰にとっても、自らのうちに根拠をもち ます。人はこのような理念を単なる思考能力から形成するのではありません。精神 の直観をその(理念の)中へ刻印するときのみ、人はそれを形成することが可能に なります。それ(理念)はしかし、精神の探求者によってひとたび存在するならば、 誰もがそれを自己のうちに受けとめ、理念そのものからその根拠を見出すでしょう。 それを単なる盲目的な信仰によって受け取る必要は誰にもありません。多くの人が それでも、精神の探求者から理念の形式においてもたらされたものが、それ自身か らは理解できないと信じるとしても、それはこのような理解のための道を自ら遮断したことに起因するにすぎません。そのような人々は、感覚的な直観に支えられて いることにのみ証明可能であるという態度をとることに慣れてしまっており、理念 それ自体が相互に証明されうることに意味を見出さないのです。これは、すべての 重い物体が地上で支えられていることを知り、それゆえ、地球自体が宇宙でも支え られているに違いないと信じる人のようなものです。 いまや精神における直観へ到達した人は、見ることの成果を事前に理念の形式で受 容することなく、運命によって事前に定められています。すべてのほかの人にとっ て、この形式へもたらされる精神界の領域の理念の内容を理解することは、自分自 身を見ること(認識すること)へ到達するための必然的な前段階です。 もしこのような精神界のイメージをひとまず理念の形式として受け止めた後で、精 神世界を見ること(認識すること)を示唆していると人が信じるならば、再び偏見が 生じます。以前話しを聞いていただけの人を実際に見るとき、サジェスチョン(示 唆)について誰も語ることができないように、まず理性によって精神界を理解した 後で、あらゆる特性をもって現実に発生する精神世界の作用を知覚するとき、サジェ スチョン(示唆)について語ることはほとんどできないでしょう。 それゆえ一般的に、人間は精神の世界をまず理念形式によって知ることをしなけれ ばなりません。このあり方において普遍アントロポゾフィー協会の精神科学は擁護 されます。 しかし、理念の形式から、精神世界そのものから取り出される表現方法に上昇しよ うとする、精神世界の表現に参加したい人がいます。そしてそのような人々も自分 自身の魂によって歩むために、精神世界への道を知りたいという人もいます。 このような個人のために、シューレの三つのクラスが存在するでしょう。そして学 びの作業は、エソテリックのより高い段階へ絶えず上昇していくようになるでしょ う。シューレは参加者を理念の形式によって啓示され得ない精神界の領域へ導くで しょう。イマジネーション、インスピレーション(霊感)、イントゥイッション(直 観)のための表現形式を見出す必要性が彼らには生じます。 それゆえ、芸術的、教育的、倫理的生活などのそれぞれの領域が、エソテリックに よって照らされ、創造のための衝動を受け止めることのできる領域にまで導かれる でしょう。 「シューレ」の構成と部門への分節については、会報次号でお伝えしましょう。

2 会員への通信 1924 年 1 月 27 日

私たちは、魂たちがアントロポゾフィーを求めるところすべてに、ゲーテアヌムの 支部をつくるわけにはいきません。なぜなら私たちの協会はまだまだ力及ばずだか らです。 ゲーテアヌムから遠く離れている人々には、ゲーテアヌムで起こっていることにつ いて書面でお知らせしていくことによってのみ、私たちの仕事に参加してもらうこ とができます。この書簡のやりとりのし方については、今後お話しましょう。文書 でのやりとりを通すことで、ある期間そこで過ごすことのできないような個人でも、 ゲーテアヌムのクラスの参加者でありえるでしょう。加えてこの書簡のやりとりは、 ゲーテアヌムでの生活の指導者、あるいはそれに密接に関わっている人が様々な場 所で行う訪問によって可能なあらゆる場所で仲介されうるでしょう。 しかしこのこと全ては、「大学」がそのエソテリックな生活と共に進むべきである とき、真のアントロポゾフィーの精神によってしっかり結び付けられなければなり ません。 ゲーテアヌムの指導は、いかなる形であっても現代の精神生活から離れて閉じこも るべきではなく、この精神生活において、人類の真のさらなる発展のために啓示さ れるものすべてを十分な関心をもって待ち受けるよう努力しなければなりません。 それゆえ、指導は、個々の人が、現在すでに可能であり、また活発な作業によって 花開いていくことが期待されるような、それぞれの部門の管理を引き受けるように なされることでしょう。 この部門活動の中心にあるのは、普遍アントロポゾフィー部門であり、当分の間、 教育部門も組み込まれるでしょう。この部門の指導は私が行います。医学部門は、 アントロポゾフィーが医術を実り多きものにすることに力を注ぎます。指導はイタ・ ヴェークマン博士の手に委ねられます。医学は古来より人間の認識という中心的な 課題と密接な、精神的な関係をもっています。アントロポゾフィーは人間と医術の 関係を再びつくりだすことによって、人間の生きる力を明らかにすべきでしょう。 イタ・ヴェークマン博士の臨床・治療研究所において、この努力のための模範的機 関と実践的効果が生み出されています。 芸術的生命をアントロポゾフィーはとりわけその中心にすえています。私たちは、 この十数年のオイリュトミー芸術の育成によって、朗読・朗唱芸術の中に、新たに 芽生える芸術的生命を持っています。音楽的なものはそこに密接な結びつきをもっ ています。この芸術的生命の育成が固有の部門においてなされます。マリー・シュ タイナー夫人が献身的なあり方で、この生命と作用を結び付けました。 彼女はアントロポゾフィー協会自身の歴史からこの部門の代表に任命されています。

造形芸術は、ゲーテアヌム建築の光の中にあります。ここの地に発展していった中 心的な作業によって、ひとつの様式が展開されました。それが今日、多くの敵対者をもっていることは当然ともいえます。その様式は当然ながら、まずは不完全な形 で、その様式が望むものを表現することができただけでした。けれども、アントロ ポゾフィーが一般的に親しみをもたれるようになれば、その様式をよりよく理解で きるようになるでしょう。エディス・マリオン女史はこの建築の様式の育成にあたっ て、この彫刻的な芸術のための部門代表でなければならないようなあり方で、私を 助けてくれました。 かつては「美しい学問」という表象がありました。それは本来の学問と人間の創造 的なファンタジーの仕事との間に橋を架けました。私たちの現代は「学問」によっ て形成されてきたという見解は、「美しい学」を背後に押しやっていきました。 『ゲーテアヌム』において私はまず「美しい学問」について語りました。私たちは アントロポゾフィー協会において、「美しい学問」についてのすばらしい代表をも つという幸運に恵まれています:アルベルト・シュテッフェンです。彼は、「美し い学問」のための部門代表であるばかりではなく、文明という災いによって隅に追 いやられた人間の創造とを再び花開かせるために召命されています。 加えて私たちのなかで作業する人物をとおして、数学・天文学的な直観のための部 門を形成することが決められ、その指導はヴレーデ博士に、そして自然科学部門の 指導は、ギュンター・ヴァクスムート博士になるでしょう。アントロポゾフィーに おける天文の領域は、特に大切です。そして自然科学部門によって、いかに真の自 然の認識は矛盾ではなく、むしろアントロポゾフィーとの完全な一致であることが 示されることでしょう。彼によって刊行された図書によって、ヴァクスムート博士 は、この部門の正しい指導者として示されることでしょう。

3 会員への通信 1924 年 2 月 3 日

精神科学自由大学の設立は、大学が求めることに参加したいと思う人が、指導部に そのことを告げるべきでしょう。まず、第一クラスの設置が問題になります。さら なる二つのクラスについては、しばらく時間をおいてやってくるでしょう。参加者 に対してはクラスの分節だけが問題になります。部門は、個々のクラスにおける指 導がこれらのクラスの特別な努力に応じることができるよう設置されるでしょう。 人は何らかの部門の会員ではなく、つまりクラスの会員です。しかしエソテリック な深化をたとえば医学の領域で探し求める人は、医学部門の指導がそのための機関 に対して適切であることによって段階的にそれを見出すことができるでしょう。そ して様々な芸術的、学術的部門の指導もそうです。あるクラスに属するものとして、 ある特定の部門によって特別な目標に至ることは、シューレ全体の代表(ルドルフ・ シュタイナー)、および各部門代表との一致によって規定されるでしょう。
普遍アントロポゾフィー部門は、シューレに属するすべての会員のために存在しな ければなりません。 すでにそれゆえ、会員受け入れは部門ではなく、クラスへのみに生じます。 精神科学自由大学は、通常の大学ではありませんから、どこかの大学となんらかし らの点で競合しあうことに向かうわけではなく、またどこかの代わりを果たすわけ でもありません。通常の大学には見出されないものを、つまりエソテリックへの深 化をゲーテアヌムに見出すことができるでしょう。 魂がその認識への努力において探しかつ求めるものを、人はまさに保持するでしょ う。この認識への努力は普遍的、人間的なものです。精神界への魂の道を見出した いという、普遍的で人間的な欲求を持つ人にとって、普遍的アントロポゾフィー部 門がそこにあるでしょう。それは彼にとって「エソテリックなシューレ(学び舎)」 を形成するでしょう。彼の生活について、専門的な学問分野、あるいは芸術的な分 野で模索したいと願う人には、その道を示すほかの部門があります。こうしてそれ ぞれの探し求める人は、ゲーテアヌムの自由大学において、彼の生活の特有の条件 にしたがって歩んでいこうとするものを見出すでしょう。自由大学は純粋に学問的 な機関であるべきではなく、純粋に人間的なものです。それはしかし、学者や芸術 家のエソテリックな欲求にも完全に向かい合うことができる機関であるべきです。

4 会員への通信 1924 年 4 月 20 日

今、自由大学の普遍アントロポゾフィー部分(部門)のためになされる講演によって、感覚的世界と超感覚的世界との間の敷居の体験について展望が与えられるべき でしょう。本当に人間の認識を探し求める人には、自然界がどれほど美や偉大さや 崇高さを啓示するにしても、人間へと導くことはないことを見通すことは必要です。 なぜなら、内なる、外に創造する人間はその源泉を、自然の世界ではなく、精神の 世界にもっているからです。この(精神の)世界へはしかし、感覚や、脳に結ばれ た理性で入っていくことはできません。この(感覚の)世界は、人間が彼の根源の 世界に向かい合おうとするとき、作用することをまず停止しなければなりません。 しかしこの作用が止まるところ、人間はまず何かを知覚する無力さの前に立ちます。 彼は周辺の環境を見渡します。それが「無」であったとしても、知覚する能力がな いがゆえにそこに存在するものが闇として彼に現われます。この無力さは、精神を 見る力によって、人間が自らの内により高次な力を得て、ちょうど有機体の物質的 諸力が人間身体の感覚を形成するように、「精神の器官」が形成されることによっ てのみ、後退していくでしょう。
このことは、内なる人間の存在形式から他の存在形式へのまったき変容を前提とし ております。この変容にさいして、彼が他の(存在形式を)獲得する以前に、一つ の存在形式を失うことがあってはなりません。正しき変容は、「敷居」における正 しき諸体験の結果です。真の存在における人間の認識は、敷居を越えたところから の視点によってのみ可能です。敷居の彼岸からやってくる認識者の知らせを、健全 なる人間の理性で受けとめたいと思う人は、認識者が敷居において体験したことの 表象をも持つ必要があります。なぜなら、そうすることによってのみ、彼は超感覚 的なものを正しく判断する状態にあり、この超感覚的なものの認識が獲得される条 件をも知るのです。 観る人がこれらのことばを刻印する力をもつ以前に、実践したことを理解してはじ めて、人は超感覚的な直観の結果が語られる言葉に内実を与えることができるでしょ う。これを理解しないならば、あたかもこれらの言葉が超感覚的なものではなく、 感覚的なものを意味したかのように思うでしょう。そうするとしかし、混乱が生じ ます。言葉は偽りのものになり、認識の代わりに幻想が入り込みます。 これらの示唆によって、まず自由大学のエソテリックな作用が特徴づけられねばな りません。ゲーテアヌムでのクリスマス会議に限定された私たちの仕事は、ふさわ しい歩みがなされた暁には、その内実を会員は適切な形式によって受け取ることで しょう。ここでエクソテリッシュ(顕教的)に語られることを、シューレにおいて はエソテリッシュ(秘教的)に発展させてゆきましょう。

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008, Dornach S.152-159
翻訳:石川恒夫