ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner

1861年2月27日、ルドルフ・シュタイナーは南オーストリア鉄道の電信技師の息子としてオーストリア(現:クロアチア)のクラリェヴェックに生まれました。

ヴィーン工科大学に自然科学と数学を学び、1882年 21歳の若さで、ヨーゼフ・キュルシュナーの<ドイツ国民文学>の「ゲーテ自然科学論文集」編集者に抜擢。

その後、1886年に「ゲーテ世界観の認識論要綱」を著し、この著作によって更に1890年から1896年の間、ゾフィー版ゲーテ全集編纂のために古都ヴァイマールに招聘されました。

彼の哲学博士論文「真理と学問」(1892)や「自由の哲学」(1894)、「反時代的闘士フリードリッヒ・ニーチェ」(1895)「ゲーテの世界観」(1897)が生まれたのはすべてこのヴァイマールにおいてです。

その後彼はベルリンに移り、「文芸雑誌」を刊行し、著作家兼講演家として活躍しました。

1899年から1904年までは、ヴィルヘルム・リープクネヒト創設の「労働者養成学校」で主に歴史を講義しました。

やがて彼の講演活動は<神智学協会>の会員の間に浸透し、その中から「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」(1902)や、人間の本質が肉体と魂と精神から成り立つことを説く「テオゾフィー(神智学)」(1904)及び「神秘学概論」(1910)などが生まれました。

既に1902年以来<神智学協会>ドイツ支部の事務総長であったルドルフ・シュタイナーはドグマにとらわれぬ彼独自の立場を貫いたため、1912年には同協会から除名され、その後間もなく彼の多くの支持者達の間から <アントロポゾフィー協会>が生まれ、1913年からルドルフ・シュタイナーの4つの「神秘劇」(1910-1913)の上演劇場であり、同時に<精神科学自由大学>でもある<ゲーテアヌム>建築がスイスのドルナッハに着工されました。

こうして芸術運動にもなったアントロポゾフィー運動が更に社会運動にもなるのは第1次世界大戦直後からです。

1919年「社会問題の核心」を著したルドルフ・シュタイナーは、まず「三分節社会有機体運動」「自由ヴァルドルフ学校運動」を、次いで「キリスト者共同体運動」「アントロポゾフィー医学運動」「バイオダイナミック農業運動」などを次々に展開してゆきます。

しかし、1922年の大晦日の夜、完成したばかりの木造の《第1ゲーテアヌム》は、放火によって突然炎上してしまいます。

《第2ゲーテアヌム》の再建が決議されたのは1923年の普遍アントロポゾフィー協会設立のための「クリスマス会議」においてです。

しかし、1924年の秋以来病床に臥していたルドルフ・シュタイナーは、「自叙伝」を含めた生涯約30冊の著作と約6千回の講演記録を残し、1925年3月30日、多くの人に愛惜されながらドルナッハのアトリエでこの世を去りました。

ルドルフ・シュタイナーの模型に基づいたコンクリートの《第2ゲーテアヌム》が完成されたのは1928年のことです。

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