邦訳資料
Ⅰ 精神科学自由大学の特徴
出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.11-21
訳:石川恒夫
I 精神科学自由大学の特徴
ハインツ・ツィンマーマン
Heinz Zimmermann
「精神科学自由大学」の特徴を記述しつつ、従来の因習的な大学や他のアントロポゾ フィーの機関について自分が理解していることを比較するために、まずは精神科学として、 この大学において擁護されているアントロポゾフィーの本質と、20世紀におけるその現わ れを視野に治める必要があるでしょう。そのための基礎として、ルドルフ・シュタイナー がアントロポゾフィーの仕事のきっかけのために「第一指導原理」として1924年に定義し た性格づけが、ここでまず考察されます。
「アントロポゾフィーは人間存在における精神的なものを、宇宙における精神的なものに 導こうとする一つの認識の道である。」
「アントロポゾフィーは一つの認識の道である」という言葉は、アントロポゾフィーは、 それによって現実が認識されるところの思考する意識に向けられていることは当初から明 白です。アントロポゾフィーは人間において、そして宇宙において知覚されたものを段階 的に認識に導こうとする一つの道です。そこから精神科学の学問的な要求が生じるのであ り、その探求領域は精神的なものです。アントロポゾフィーはつまり信仰ではないし、世 界観的な主義・信条でもないし、宗教的な精神の啓示でもありません。アントロポゾフィー は精神の領域へ向かう一つの認識の道です。この道は一つの場、一つの段階、一つの状況 から次のものへ導きます。この道を歩むことをとおして、人は新しい地平を獲得し、自己 自身を変容させるのです。
認識の道としてのアントロポゾフィー
何をとおして私たちは認識するのでしょうか。まず思考する意志によって、「人間存在に おける宇宙的なもの」をとおして。それでは「人間存在における宇宙的なもの」とは何で しょうか。私はそれをいかに知覚し、何によって私はそれを現象にもたらすのでしょうか。 まず精神的なものは、人間の誕生から死に至るまでの生涯に広がり、前世からのインプル スをたずさえ、死の門をくぐって問いと衝動を担っていき、それとともに個人の運命の担 い手であるそれぞれの人間の一度限りのものの中に現われています。それは特定の生活状 況において表れ、言葉としては以下のように表現しうる明白な体験です:「私は一人の私であり、私はこの世界において課題をもっている。私の中には、思考や表 象の能力をとおして目標を据えることのできる一つの機関が生きている。その目標は、私 自身を通して実現されうるものである。私はこの機関によってただイデーを把握すること ができるのみならず、この理念を私の心と結びつけ、私はそれを私の意志を把握する理想 のうちに変容させ、そうして私自身を、そして世界を変えることができる。私は私自身を 変容することができる。私は私自身を発展できる。私は私が今存在しているようにとどま りたいのではない。なぜなら私は私自身の内に、人生において実現するに値する可能性を 見出しているからである。」
すでに小さな子どもは、それぞれの発言とともに表現しています。「私は私が今存在して いるようにとどまりたいのではない。」と。成人としての私はこの事実内容を意識し、私 の発展目標を自主的に定めます。なぜなら私は思考し、それによって思考において未来を 先取りすることができるからです。
「時間における人間」と「理念における人間」(シ ラー)の間の緊張を十分強力に体験するとき、私は自己変容と自己規定の道を歩みます。 「人間存在における精神的なもの」はいつも生産的で現在的であり、いつも動きの中に存 在しています。
三重のあり方で「自我」と呼びうるものがそれによって示されます。
1 私が自分の自己に意識的になるならば、私が見出すもの。過去の成果としての時代に おける人間。
2 私に未来の可能性として表象可能なもの、私がなりうるもの。そして、
3 意志の存在、それは未来の像を模索しつつ、これを段階的に実現するように探し求める。
自己認識と自己発展は、互いに包み込み、相互に条件づけます。アントロポゾフィーにおいて認識と道徳は互いに結ばれようと欲します。認識の道は認識者を変容させ、この変容 によって認識は生まれます。こうして認識はいつも状況に依拠し、決して絶対的なもので はありません。真実は認識者にいつも何かとの関係において示されるものであり、けっし て原理的なものではありません。真実を意識にもたらすべき器官である思考は、自己運動 をとおして、運動の内に存在している客観的な精神、「宇宙における精神的なもの」を捉 えなければなりません。「人間存在における精神的なものを宇宙における精神的なもの」へ導くことは、つまり、私が今まで私自身の外で感じるもの、つまり世界を、私の存在と 結びつけようとすることを意味しています。その場合私は、私の中の精神的なものは、世 界における精神的なものと本質的に同じものであるということに気付きます。認識はつま り融合すること、献身すること、愛することを意味しますが、しかし無意識な魂の表明と してではなく、目覚めた思考の意識からもたらされるものです。認識とはそうして、自己 意識に到るために、ひとたび切り離さなければならなかったものと、再びアクチュアルな 認識行為の中で融合することです。認識の道は聖体拝領(Kommunion)の道になります。
宇宙は私の意識にとってはまずは表象像の総計として、およそ過去からやってきた生成さ れたものとして現れます。私がこの与えられたものの内に精神的なものを探し求めるとき、 私は、自我と同様に、生成された結果のうちに、この生成されたものへ導き生み出す形成 する諸力を積極的に探し求めなければなりません。
アントロポゾフィーの言葉において、このことは、生き生きとした概念への道であり、 最終的にはこの概念の内に生き、作用する本質への道です。ルドルフ・シュタイナーの「自 由の哲学」は、思考をこの意味において精神の器官に変容させるための練習の手引書とも 理解されるでしょう。そして「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」という著 作における様々な行は、現象から本質へ、形成されたものから生成するものへの道を切り 開く指導書であります。「導こうとする」という話法とともに、アントロポゾフィーの自 由の空気が私たちに吹き付けます。つまり、道はあくまで個人によって望まれるものであ るべきであって、自分自身が歩んでいかねばなりません。ここには信条の強制はありませ ん。むしろただ個人の活動、行為に対する励まししかありません。これがアントロポゾ フィーなのです。
二つの体験はさきほど導かれた第一指導原理に結び付けられます。一つには認識の領域 は無限であり、計り知ることの出来ない高みに導くという感情であり、もう一つには自己 の創造力と変容の可能性の体験です。それは世界に相対する単なる主体的なものではなく、 行為の源泉です。つまり私は私の意志を通して、私の中に、私が世界においても造形力と して発見するものを行為にもたらすことができるのです。