【ゲーテアヌムより】年次総会、およびゲーテアヌム世界会議2023へのご招待


  1月の臨時総会を終えて、ゲーテアヌムから年次総会2023への招待の手紙が届きました。年次総会は2023年3月31日から4月2日までゲーテアヌムで開催され、会員ログインエリア(www.goetheanum.org/login)からドイツ語、英語など複数の言語でライブストリームを視聴することができます。諮問のための電子投票を行うことも可能です。

 私たちは、アントロポゾフィー協会が、いかにして本来あるべきコスモポリタンな世界協会になっていくかという課題に直面しています。近年の動向は、世界協会がアントロポゾフィー、精神科学自由大学、ゲーテアヌムのための担い手として、いかに必要であるかを示しています。(「年次総会2023へのご招待」より)

 また、昨年の9月下旬にはゲーテアヌム世界会議2023へのご招待も送付されました。2023年9月27日から10月1日にかけてゲーテアヌムで開催されるこの会議では、「世界運動を再構築する」と題して、アントロポゾフィーの内外で活躍する人々とともに、今後数年間に待ち受ける課題と挑戦に欠かせないステップについて話し合い、一致点を見出したいと考えています。

 ゲーテアヌムからの年次総会2023へのご招待の手紙と関連する資料、およびゲーテアヌム世界会議2023へのご招待の手紙は、下記をご覧ください。

年次総会2023:ご招待の手紙

年次総会2023:議案書

年次総会2023:プログラム 

ゲーテアヌム世界会議2023へのご招待  

Ⅱ 精神科学自由大学とアントロポゾフィー運動

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.23-30

訳:石川恒夫

II 精神科学自由大学とアントロポゾフィー運動

ボドー・フォン・プラトー
Bodo von Plato

「アントロポゾフィー運動」という呼び方はヴァルドルフ学校、アントロポゾフィーの病 院施設、バイオ・ダイナミック農場などのように、世界中に見られる、アントロポゾフィー をインスピレーションの源とする施設やイニシアチブの活動に対してしばしば用いられて います。ルドルフ・シュタイナーが生きていた時代におけるアントロポゾフィーの発展を 見ていくならば、このアントロポゾフィー運動は四つの異なる段階に分けることができる でしょう。この段階は同時に、四つのアントロポゾフィーの異なる現実的視点をもっており*1、精神科学自由大学の決定的な三つの基本モチーフを反映しています。その共演が特 別な質を形成しているのです。

*1ルドルフ・シュタイナーはアントロポゾフィーの発展における三つの段階についてしばしば語ってお り、ここで最初の段階として記述した部分を特に分離して数えてはいない。参照「アントロポゾフィーの共同体形成」(GA257)、「アントロポゾフィー協会との関係におけるアントロポゾフィー運動の歴史と条件」(GA258)

1.アントロポゾフィーの四つの発展段階

アントロポゾフィーの四つの発展段階は、アントロポゾフィー運動のしだいしだいに広が る表現形式として特徴づけられるでしょう。
1902年までにルドルフ・シュタイナーは人間と世界をスピリチュアルに認識するために認 識論、知識学の基本を発展させました。特に「自由の哲学」(GA3)、「真理と学問」 (GA4)の著作がこの時期、第一期を代表しています。それらは人間の責任を自己と世界 に対して中心に据える、思考と倫理的個体主義を顧慮していく一つのパラダイムの変換を 記述しています。これらの著作は、それに呼応する思考活動によって意識化されうる精神 的衝動であり、アントロポゾフィー運動の哲学的表現であります。
1902年から1909年までの第二期においては、ルドルフ・シュタイナーのエソテリックな活 動が発展の前面に出ています。その証が「テオゾフィー」(GA9)、「いかにしてより高 次な世界の認識を獲得するか」(GA10)、「より高次な認識の階梯」(GA12)、「神秘 学概論」(GA13)に特に表れています。ここでシュタイナーはスピリチュアルな、霊的リアリズムを記述し、構築することによって、アントロポゾフィー運動は瞑想的な道として 広がりを見せることになります。誰もが内的文化の個人的育成によってこの瞑想の道を実 現することができるのです。この修業の道は、人間の自己を見定める力を具体化すること を目指しており、人間であることの意識を拡大することを目指すものです。同時にそれは 精神界についての学問の基礎付けでもありました。

1910年から1917年にアントロポゾフィー運動は第三期を迎え、特に芸術によって、まず1910~13年におけるミュンヘンでの「神秘劇」の上演、オイリュトミーの誕生(1912年)、そして「ことばの家」としてアントロポゾフィー運動が公的に目に見えるようにな る第一ゲーテアヌムの建設(1913~1920)によって顕現されていきます。さらにルドル フ・シュタイナーは1911年にスピリチュアルな社会衝動として理解される「テオゾフィー の本質と芸術のための協会」を創立する試みをしています。まずは失敗に終わったこの試 みの基本的要素は、1923年のクリスマス会議における普遍アントロポゾフィー協会の設立 において再現されます。最初のアントロポゾフィー協会の創設もこの時期、1912/13年の ことでした。

1917年の「魂の謎について」(GA21)の出版をもって、アントロポゾフィーの発展にお ける第四期が始まります。ルドルフ・シュタイナーは30年間に及ぶ霊的探求の成果につい て語り、それがこの時期に表出されます。シュタイナーはこの著作において、三つに分節 された人間の有機体についての見方を披露しています。この見解及び特定の研究及び生活 領域のための数多くの講座、講演がアントロポゾフィー運動の新しい広がりに至ります。 つまり、教育、医学、農学、社会生活などにおける、精神的リアリズムの基盤に立った実 践的・職能的生活を可能にするイニシアチブが生まれてくるのです。アントロポゾフィー は日々の生活実践の領域で作用することを始め、アントロポゾフィー運動は一般社会にお いて、霊的・精神的に模索しつつ貢献するものへ展開していきます。ここではじめて、通 常「アントロポゾフィー運動」と呼ぶものが生まれるのです。

2.精神科学自由大学の基本モチーフ

1923年のクリスマス会議における普遍アントロポゾフィー協会の設立において、ルドルフ・ シュタイナーはアントロポゾフィー運動のこの4つの観点を総括しつつ、そこに「精神科 学自由大学」というひとつのフォルムを与えています。この大学をシュタイナーはアント ロポゾフィー協会の「魂」と呼び、普遍的・人間的なものの文化に貢献すべきものであるとみています。アントロポゾフィー運動とアントロポゾフィー協会はこのあり方において 一つの統一体となるでしょう。大学の三つの基本モチーフはこの観点から以下のようにみなされます。
精神科学自由大学は、その弟子が指導者(マイスターないしは秘儀参入者)によって招聘 されるのではない最初のエソテリックな学校(シューレ)です。むしろ、未来の弟子の側 で、個的精神文化を発展させるために自己の責任を発見することが問題なのです。この発 見と、そして魂の修業と瞑想的実践を伴うそれに続く体験が、大学における協働への関心 へと導くことになります。〔大学の〕代表者との対話において、大学における会員である ことが理にかない、生きるに値するものかどうかが見出されなければなりません。ここで アントロポゾフィーのはじめの二つの発展段階との関係は明白でしょう。つまり自由の力、 自己認識及び自己規定するための力と、瞑想的な道を実践することが、大学へ入るための 決定的な前提となるのです。

第二番目の基本モチーフは、精神科学自由大学が一方では、真に霊的な発展の次元をその 仕事と課題の中心に据えている限り、オクルトな、エソテリック(秘教的)な施設であり、 他方で同時に公的な施設であり、なんでも秘密にしておこうとする機関であるべきではない、という事実にあります。このことは第一ゲーテアヌムが「ことばの家」として目に見 える形でドルナッハの丘の上に建設されたように、エソテリックな運動としてのアントロ ポゾフィーは公的に目に見えるようになるという、発展の第三期に対応するものです。この「ことばの家」は誰もが魂の内面によって構築されうるものです。20世紀の始まりとと もに、透明性と公開性の原理は社会生活においてますます重要な意味をもつようになりま した。内的文化に目を向けても現代人は公開の次元に付与するように求められています。 このことは決してこの内的文化の公開を意味するのではなく、その実践を世界において、 世界に対して責任を担うこと、日々の生活のために有効なものにしていくことが問題なのです。精神科学自由大学は、この願いを結びつける人間の共同作業のためのひとつの機関 としての形式を提供しているのです。

最終的に精神科学自由大学は個人的なエソテリックな発展のためにだけ寄与するものではありません。その公的なもしくは文明に対する課題を担う意味において、大学は、普遍的・ 人間的なものの発展と深化を、世界へ向かう生活態度の中に努力し求めていこうとするひ とつのイニシエーション〔秘儀へ〕の道を擁護します。そこにこそ職能的秘教に対する基 本要素があります。大学を包括的に構成する各専門部門は、この職能におけるエソテリッ クな様々な作業形式を発展させています。部門における、また部門同士の協働による専門 能力の深化と拡充は、霊的な研究共同体の形成を目指しており、そこから個人はアントロ ポゾフィーを時代に即した生活の中で実現し、代表することができます。これはアントロポゾフィーの発展の第四期に対応しており、市民生活に生き、そしてそこから作用を及ぼす存在となるのです。

3.精神科学自由大学の特徴とその生活条件

この意味において精神科学自由大学の特徴とその生活条件を包括的に記述してみましょう。
精神科学自由大学は個体の自由な自己規定と個人の瞑想的文化の上に構築されます。大学の会員になることを決断する人は、アントロポゾフィーをよく学びつつ、その人に応じた方法で、指摘された基本文献を読んでいることです。精神科学の学び、そして特にその瞑 想的な深化は、精神的潮流としてのアントロポゾフィー運動とのまったき個的結びつきの ための前提をつくりだします。大学との結びつきはつまり、まずは個人的な発見ですが、 個人の自由な決断へ至り、内なる瞑想的訓練の実践において実現されていきます。

精神科学自由大学は公開されており、その会員の共同作用によって構築されます。アント ロポゾフィーの発展はその本質によって、自己責任のみならず、時代の状況と同時代人に 対する関心と連帯責任をも呼び起こします。アントロポゾフィーによって仲介される瞑想の態度と実践は、ごく内的なものではありますが、決してプライベートな事柄ではありません。それは瞑想する人を精神界に対する全く個的な関係に据えつつも、地上的な現代文明とのこの関係に呼応した連関に立てるのです。大学は二つの世界にむけて実践をとおし て奉仕したいのです。そのための基盤は、会員の共同作用です。したがって大学への入会 も、大学と結ばれていると感ずる他者と結びつきを保とうとする心持ちに規定されていま す。公開されたエソテリックな学び舎(シューレ)の特性を保証するために、大学の協働 者及び大学運営の責任を担った理事会には、作業の方法、協働作業の形式、目的、意図、 成果を目に見えるようにし、後づけできるようにすることが問題となります。

精神科学自由大学は職業生活における精神的な方向付けとアントロポゾフィーの代表者であることを支援する課題を担っています。生活実践と職業生活の自由大学への統合、及び 自由大学での研究の職業生活と生活実践への統合は、とりわけ専門的な部門活動によって生じます。この視点は重要な意味をもっています。なぜならそれによって「瞑想の生活」 と「活動の生活」の交わりが実現されるからです。この事実は相互信頼に基づく協働を要 求します。共に働くとは、関与する人々のなかで、規準的または位階的秩序なくして互い に折り合うことです。この事実はまた個々の生活・作用領域におけるアントロポゾフィー の実りある効能を取上げるべく、研究共同体の形成を要請します。このことは特に職業に 限定されない普遍的・人間的な修養にとっても同様であり、普遍アントロポゾフィー部門では、益々すべてが専門分化してしまう現代にあって、この普遍的・人間的な ものを注視しています。そこから大学会員には、その中心に普遍的・人間的なものの擁護 を据えようとするアントロポゾフィー協会に対する責務が心臓に宿ることでしょう。霊的 な方向性をもった責務を担うことこそが、現代にあって精神科学自由大学における特徴的 なことです。アントロポゾフィーの代表者であることはこの意味において、大学会員に対 する第三の条件です。

4.現代的な組織形態と自由大学の課題

20世紀後半における発展は、精神科学自由大学がアントロポゾフィーのイニシアチブに基 づく仕事とある疎遠関係に至っていることを示しています。大学は「第一クラス」における学びと生活と同一視されてきたし、今日なおそう見られており、専門職を念頭に置いた 部門活動はさほど意識されていません。第一クラスだけが大学なのではありません。その 内実との結びつきから生まれてくる生活が、ある意味大学の精神的心臓を形成するのであり、専門の部門活動とその効用によってはじめて、全体になるのです。1970/80年代にお けるアントロポゾフィーに根差した職域(教育、医学、農学、治療教育、社会セラピーな ど)の世界的な発展、広がりが1908年代の終わりとともに、大学の部門における仕事の変 化と強化へ至りました。普遍的アントロポゾフィーの中心テーマである瞑想の実践、人間学、再生とカルマ、キリスト論、ヒエラルヒア論が、特に「普遍アントロポゾフィー部門」*2で取上げられていますが、その普遍的・人間的特徴を標榜するゆえ、個々の目下のところ10の各部門と密接な関係をもっています。
*2 普遍アントロポゾフィー部門については、日本アントロポゾフィー協会〔再建〕会報アントロポゾフィア2008年5-6月号p6を参照ください。

普遍アントロポゾフィー協会の理事と、自由大学の各部門の責任者との協働をとおして、1990年代から規則的に開催される大学コレギウム(評議会)がゲーテアヌムで展開され、2000年以降、大学のための指導責任を保持しています。大学コレギウムのなかで、(協会 の)理事は普遍アントロポゾフィー部門の指導と発展、またこの枠内において第一クラス の仕事の調整の委託を受けています。精神科学自由大学は今日、分節された課題領域を携 えて、コレギウムによって指導された、世界に広がる仕事のつながりをもっています*3。 ルドルフ・シュタイナーが第一クラスにおける19回のエソテリックな指導時間に添えたマ ントラの秘儀参入の道は、大学での仕事のための共有すべき精神的基盤を形成しています。
*3大学コレギウムメンバー(2008年時点):普遍アントロポゾフィー部門;ヴァージニア・シース、ハインツ・ツィンマーマン、パウル・マッカイ、ボドー・フォン・プラトー、セルゲ O・プロコフィエフ、コ ルネリアス・ピーツナー、セイヤ・ツィンマーマン/ 自然科学部門;ヨハネス・キュール/ 数学・天文 学部門;オリヴァー・コンラート/ 医学部門;ミヒャエラ・グレックラー/ 教育部門;クリストフ・ ヴィーヒェルト/ 音楽朗唱芸術部門;マルガレーテ・ソルスタット/ 美学部門;マルティナ・マリア・ サム /農学部門:ニコライ・フックス /青年部門;エリザベト・ヴィルシンク /社会科学部門;パウル・マッカイ /造形芸術部門;ウルズラ・グルーバー

大学の設立時の関心事として、いつも新たに様々に異なるアントロポゾフィー運動の視点 を擁護し、統合していくことを保証するという課題が特に認識されます。霊的自己規定、 瞑想の実践、社会的責務、社会参加が現実生活のなかでいつも崩壊の危機にさらされてい ます。大学に於いてはそれらがいつも新たに互いに結びつきをもとうと意識されています。 加えて精神科学自由大学は、霊的な力の発展によって時代の要請に応えたいと願う人間の 出会いと協働を可能にしています。アントロポゾフィーの様々な機関における今日の生活 と特に仕事は、共有する精神的深化によって生ずる信頼を一層必要としているのです。

2008年5-6月号から2010年5-6月号にかけて、11の部門活動が掲載されています。今回はその続編になります。

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S. 23-30
翻訳:石川 恒夫

Ⅰ 精神科学自由大学の特徴

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.11-21

訳:石川恒夫

I 精神科学自由大学の特徴

ハインツ・ツィンマーマン
Heinz Zimmermann

「精神科学自由大学」の特徴を記述しつつ、従来の因習的な大学や他のアントロポゾ フィーの機関について自分が理解していることを比較するために、まずは精神科学として、 この大学において擁護されているアントロポゾフィーの本質と、20世紀におけるその現わ れを視野に治める必要があるでしょう。そのための基礎として、ルドルフ・シュタイナー がアントロポゾフィーの仕事のきっかけのために「第一指導原理」として1924年に定義し た性格づけが、ここでまず考察されます。

「アントロポゾフィーは人間存在における精神的なものを、宇宙における精神的なものに 導こうとする一つの認識の道である。」

「アントロポゾフィーは一つの認識の道である」という言葉は、アントロポゾフィーは、 それによって現実が認識されるところの思考する意識に向けられていることは当初から明 白です。アントロポゾフィーは人間において、そして宇宙において知覚されたものを段階 的に認識に導こうとする一つの道です。そこから精神科学の学問的な要求が生じるのであ り、その探求領域は精神的なものです。アントロポゾフィーはつまり信仰ではないし、世 界観的な主義・信条でもないし、宗教的な精神の啓示でもありません。アントロポゾフィー は精神の領域へ向かう一つの認識の道です。この道は一つの場、一つの段階、一つの状況 から次のものへ導きます。この道を歩むことをとおして、人は新しい地平を獲得し、自己 自身を変容させるのです。

認識の道としてのアントロポゾフィー

何をとおして私たちは認識するのでしょうか。まず思考する意志によって、「人間存在に おける宇宙的なもの」をとおして。それでは「人間存在における宇宙的なもの」とは何で しょうか。私はそれをいかに知覚し、何によって私はそれを現象にもたらすのでしょうか。 まず精神的なものは、人間の誕生から死に至るまでの生涯に広がり、前世からのインプル スをたずさえ、死の門をくぐって問いと衝動を担っていき、それとともに個人の運命の担 い手であるそれぞれの人間の一度限りのものの中に現われています。それは特定の生活状 況において表れ、言葉としては以下のように表現しうる明白な体験です:「私は一人の私であり、私はこの世界において課題をもっている。私の中には、思考や表 象の能力をとおして目標を据えることのできる一つの機関が生きている。その目標は、私 自身を通して実現されうるものである。私はこの機関によってただイデーを把握すること ができるのみならず、この理念を私の心と結びつけ、私はそれを私の意志を把握する理想 のうちに変容させ、そうして私自身を、そして世界を変えることができる。私は私自身を 変容することができる。私は私自身を発展できる。私は私が今存在しているようにとどま りたいのではない。なぜなら私は私自身の内に、人生において実現するに値する可能性を 見出しているからである。」

すでに小さな子どもは、それぞれの発言とともに表現しています。「私は私が今存在して いるようにとどまりたいのではない。」と。成人としての私はこの事実内容を意識し、私 の発展目標を自主的に定めます。なぜなら私は思考し、それによって思考において未来を 先取りすることができるからです。

「時間における人間」と「理念における人間」(シ ラー)の間の緊張を十分強力に体験するとき、私は自己変容と自己規定の道を歩みます。 「人間存在における精神的なもの」はいつも生産的で現在的であり、いつも動きの中に存 在しています。

三重のあり方で「自我」と呼びうるものがそれによって示されます。

1 私が自分の自己に意識的になるならば、私が見出すもの。過去の成果としての時代に おける人間。

2 私に未来の可能性として表象可能なもの、私がなりうるもの。そして、

3 意志の存在、それは未来の像を模索しつつ、これを段階的に実現するように探し求める。

自己認識と自己発展は、互いに包み込み、相互に条件づけます。アントロポゾフィーにおいて認識と道徳は互いに結ばれようと欲します。認識の道は認識者を変容させ、この変容 によって認識は生まれます。こうして認識はいつも状況に依拠し、決して絶対的なもので はありません。真実は認識者にいつも何かとの関係において示されるものであり、けっし て原理的なものではありません。真実を意識にもたらすべき器官である思考は、自己運動 をとおして、運動の内に存在している客観的な精神、「宇宙における精神的なもの」を捉 えなければなりません。「人間存在における精神的なものを宇宙における精神的なもの」へ導くことは、つまり、私が今まで私自身の外で感じるもの、つまり世界を、私の存在と 結びつけようとすることを意味しています。その場合私は、私の中の精神的なものは、世 界における精神的なものと本質的に同じものであるということに気付きます。認識はつま り融合すること、献身すること、愛することを意味しますが、しかし無意識な魂の表明と してではなく、目覚めた思考の意識からもたらされるものです。認識とはそうして、自己 意識に到るために、ひとたび切り離さなければならなかったものと、再びアクチュアルな 認識行為の中で融合することです。認識の道は聖体拝領(Kommunion)の道になります。

宇宙は私の意識にとってはまずは表象像の総計として、およそ過去からやってきた生成さ れたものとして現れます。私がこの与えられたものの内に精神的なものを探し求めるとき、 私は、自我と同様に、生成された結果のうちに、この生成されたものへ導き生み出す形成 する諸力を積極的に探し求めなければなりません。

アントロポゾフィーの言葉において、このことは、生き生きとした概念への道であり、 最終的にはこの概念の内に生き、作用する本質への道です。ルドルフ・シュタイナーの「自 由の哲学」は、思考をこの意味において精神の器官に変容させるための練習の手引書とも 理解されるでしょう。そして「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」という著 作における様々な行は、現象から本質へ、形成されたものから生成するものへの道を切り 開く指導書であります。「導こうとする」という話法とともに、アントロポゾフィーの自 由の空気が私たちに吹き付けます。つまり、道はあくまで個人によって望まれるものであ るべきであって、自分自身が歩んでいかねばなりません。ここには信条の強制はありませ ん。むしろただ個人の活動、行為に対する励まししかありません。これがアントロポゾ フィーなのです。

二つの体験はさきほど導かれた第一指導原理に結び付けられます。一つには認識の領域 は無限であり、計り知ることの出来ない高みに導くという感情であり、もう一つには自己 の創造力と変容の可能性の体験です。それは世界に相対する単なる主体的なものではなく、 行為の源泉です。つまり私は私の意志を通して、私の中に、私が世界においても造形力と して発見するものを行為にもたらすことができるのです。

ルドルフ・シュタイナーによる普遍アントロポゾフィー協会定礎式

1923年12月25日 午前10時 ドルナッハ

訳:上松佑二

ルドルフ・シュタイナーによる普遍アントロポゾフィー協会定礎式 (1)

シュタイナー博士が以下の言葉であいさつします。
私の親愛なる友人の皆さん、今日最初の言葉として私たちのホールに響くのは、最近数 年の最も重要な出来事として皆さんの魂の前に立つことのできるものの要約です。
この要約する言葉について若干のことが後から語られるでしょう。先ずはしかし、古代 の秘儀の言葉《お前自身を認識せよ》を現代の印から私たちの意味において新たにするた めに、私たちの耳がこれらの言葉によって触れられますように。

人間の魂よ!
お前は手足の中に生きている、
お前を空間の世界を経て、
精神の海の存在へと運んでゆく。
精神の想起を行え、
魂の深みの中で、
支配する
宇宙創造者の存在の中で
自分の自我が
神の自我の中に 生まれる;
そしてお前は真に生きるであろう
人間の宇宙の存在の中で。

人間の魂よ!
お前は心臓・肺の鼓動の中に生きている、
お前を時のリズムによって
自分の魂の感情へと導いてゆく:
精神の内省を行え
魂の平衡の中で、
波打つ
宇宙の生成の行為が
自分の自我を
宇宙の自我に
結びつける;
そしてお前は真に感ずるであろう。
人間の魂の活動の中で。

人間の魂よ!
お前は安らぐ頭部の中に生きている
お前に永遠の根拠から
宇宙の思考を解きあかす;
精神の直観を行え
思考の安らぎの中で
永遠の神々の目標が
宇宙の存在の光を
自分の自我に
自由な意志に
贈っている;
そしてお前は真に思考するであろう
人間の精神の根底において。

私の親愛なる友人の皆さん! 恐ろしい戦争の嵐が世界を波打っていた頃、精神界から 取ってこられたものを今日振返ってみると、これは、丁度今皆さんの耳に響いた箴言のこ の三重性に範例としてまとめられなければなりません。 それによって人間が精神・魂・肉体の全存在において新たな形で《お前自身を認識せよ》 を生々とさせることができる、あの人間の三分節が知覚され、この三分節は何十年も知覚 されてきました。私自身、戦争の嵐の間の過去数十年にそれを初めて成熟させることがで きました。当時私は、人間が物理的にいかにその新陳代謝―手足―組織の中に、心臓―リズム組織の中に、頭部―思考―組織の中に生きているかを暗示しようと試みました。そし て人間は、昨日暗示されたように、正しくその心臓をアントロポゾフィアによって生かす ことによって、この三分節を正しく自分の中に受入れることを確信することができます。 その時人間は自分が実際行うことを感じつつ、意志しつつ、認識することを学ぶことによっ て、宇宙の諸精神が彼を生々とさせながら、彼の手足によって空間の彼方に身を置きつつ、 その時、世界を活発に把えることによって――苦しみつつ、受身的に世界を把えるのでは なく、人間が世界における義務、課題、使命を満たしつつ――全宇宙の存在の一部であり、 全てを支配する人間愛と宇宙愛の本質を認識します。そして人間が肺と心臓の間に支配す る素晴らしい秘密を認識する時――何千年となく、永劫に作用する宇宙のリズムがいかに 脈拍のリズムと血液のリズムに打ち込まれ、人間の中に宇宙の魂を目覚めさせるかが、内 的に知覚できるように表現されています。― このことが英知に満ちて認識の器官としての心臓によって把えられるとき、人間は、世界 の絵像が、神によって与えられたものが、宇宙をいかに自分から活発に啓示するかを体験 できるでしょう。それを願うこともできます。人が作用する自己運動の中に支配的な宇宙 愛を把えるように、人は自分の中で宇宙リズムと心臓リズムの間の秘密に満ちた移行を感 ずる時、そしてこれを通して再び肺と心臓の間に秘密に満ちて魂的―精神的に起る人間の リズムを感ずる時に、人は宇宙存在の原像を把えるでしょう。そして人間が歩いている時 も肩の上で安らいでいる頭部組織に啓示するものを正しく感じつつ知覚する時、その時彼 は自分の頭部組織に自己を感じつつ、心臓のあたたかさを頭部組織に注ぎつつ、支配し、 作用し、営む、宇宙思考を自分の存在の中で体験するでしょう。 そして彼はあらゆる存在の三重性を人間愛の中に支配する宇宙愛、人間の組織造形の中 に支配する宇宙のイマジネーション、人類の思考の中に地下のように秘密に満ちて支配す る宇宙思考、人間はこの三分節を把え、宇宙の支配的な神々の作用の中の個的に自由な人 間として、宇宙人間として、宇宙人間の中の個的な人間として、宇宙の未来のために、宇宙人間の中の個的な人間として作用しつつ自己を認識するでしょう。人間は現代の印から 古への言葉《お前自身を認識せよ!》を新たなものにするでしょう。 ギリシャ人はまだその追加(自身)を外すことを許されていました。何故なら人間の自 己は、私たちのようにまだ抽象的にはなっていなかったからです。抽象的な自我-点に、あ るいはせいぜい思考、感情、意志に合流するのではなく、ギリシャ人の場合には、人間の 本性が精神、魂と肉体の全体として把えられていたからです。こうしてギリシャ人は太古 の太陽の言葉、アポロンの言葉《お前自身を認識せよ!》の言葉を響かせた時、精神、魂 と肉体による全人に出会うと信ずることが許されました。 私たちはしかし、時代の印から、この言葉を正しく新たにする時、おお人間の魂よ、精 神、魂と肉体における、お前の存在の営みの中で、お前自身を認識せよ、と言わねばなり ません。その時私たちは、あらゆる人間存在の根底に横たわっているものを理解しました。 そして高みから流れ、人間の頭部に啓示する精神がその中で作用し、存在し、生きている 宇宙の実体、地球の周りを巡り、私たちの呼吸組織に作用し、周辺の至る所に作用するキ リストの力、私たちの手足の中に作用し、深みの中で大地の内部から昇ってくる諸力を認 識する時、そして私たちがこの三つの力、高みへの力、周辺の力、深みの力をこの瞬間に 造形する実体として統合する時、その時、私たちは魂を把握する中で宇宙の12面体に、 人間の12面体を対置させることができます。そしてこの三つの力から;高みの精神から、 周辺のキリストの力から、父の作用から、深みから流れる創造的な父の働きから私たちは、 この瞬間、私たちの魂の中に、私たちの魂の大地に沈める12面体の礎石を形成しましょ う。それによってこの礎石は私たちの魂の存在の力強い基盤の強力な印として存在してお り、私たちはアントロポゾフィー協会の活動の未来において、この確固たる礎石の上に立 つことができるでしょう。 アントロポゾフィー協会のために今日形成されたこの礎石をいつも意識し続けましょう。 アントロポゾフィー協会の充分な展開のために、促進のために、発展のために、私たちの 外部やここで行おうとするもの全てに私たちの心の大地に今日沈められた礎石への思いを 保ち続けましょう。私たちに愛を教え、宇宙のイマジネーションを教え、宇宙思考を教え る三分節の人間の中に私たちが基礎を築く宇宙愛の実体を求めましょう。私たちの心の中 に宇宙愛を形成するイマジネーションの原像を求めましょう。この12面体のイマジネー ションの愛の姿を相応しい方法で輝かせるために、高みからの思考の力を求めましょう。 その時私たちは、ここから私たちが必要とするものを運んでゆくでしょう。その時礎石は 私たちの魂の目の前で輝くでしょう。宇宙の人間愛からその実体を、宇宙の人間のイマジ ネーションからその輝きの光をもつあの礎石が輝くでしょう。それは私たちがこの瞬間を 思い起こすいかなる瞬間にも、あたたかい、しかし、私たちの行為、私たちの思考、私た ちの感情、私たちの意志を励ます光によって私たちに輝いてくることができるでしょう。 私たちが今日の礎石を置かねばならない、正しい大地、その正しい大地は、私たちの心 です。アントロポゾフィーの意志を共に世界に運び出す、愛によって貫かれた善なる意志 の、調和に満ちた共作用の中にある私たちの心です。それは私たちの心に今日沈めたいと 思う12面体の愛の礎石から、いつも私たちに向って輝くことのできる思考の光から、警 告するように私たちに輝いてくることができるでしょう。

ルドルフ・シュタイナーによる普遍アントロポゾフィー協会定礎式(2)

私の親愛なる友人の皆さん、私たちはその(礎石の)思考の光を私たちの魂の中に正し く受け入れましょう。それによって私たちは、私たちの魂をあたためたいと思います。そ れによって私たちは、私たちの魂を照らしたいと思います。そして私たちは今日、善意か ら私たちの心に植えつけたこの魂の光と、この魂のあたたかさを守りたいと思います。 私の親愛なる友人の皆さん、世界を本当に理解する人間の想起が、夜の闇から、人類の 道徳的な感受の闇から、天上の光のように、打ち込むように、キリストになった神の存在、 人類の中に入りこんだ精神の存在が生まれたあの時代の転期の、人類の発展のあの点を振 返る瞬間、私たちはそれを植えこみます。 そして私たちは、時代の転期にキリストの光として、宇宙の闇の中に輝くあの光、あの あたたかさによって、私たちがそれを生かす時、私たちが必要とするあの魂のあたたかさ、 あの魂の光を最もよく力づけることができるでしょう。そして私たちは、この2000年 前に行われた原クリスマスを、私たちが、宇宙によって創られ、人間的なものの中に置か れた12面体の、愛の礎石の思考の光によって私たちに輝いてくるものを世界に運び出そ うとする時、それが私たちを助けるように、私たちの心に、私たちの感覚に、私たちの意 志に生かしたいと思います。 そして、私たちの心の感情が古代のパレスティナでの原クリスマスを振返ってみたいと 思います。

時代の転期に
宇宙の精神の光が現れた
地上の存在の流れの中に;
夜の暗闇が
支配していた;
昼の明るい光が
人類の魂に輝いた;
光が、

あたためる
貧しい羊飼いの心を;
光が、
照らす
賢い王たちの頭部を。

神の光、
キリストの太陽、
あたためよ
私たちの心を;
照らせよ
私たちの頭部を;
良きものとなるように、
私たちが
心から築き、
私たちが
頭部から
目的に満ちて導こうとするものが。

原クリスマスに帰るこの感情が、心のあたたかさに、頭部の輝きに、アントロポゾフィー として作用しつつ、三分節の統一のために調和する人間の認識から出てゆくことのできる ものを、正しく実行するために私たちが必要とする力を与えることができるでしょう。 そして、それ故今再び私たちの魂の前に要約として置かれるのが《精神、魂と肉体によっ て、お前自身を認識せよ》の本当の理解から結果として生まれてくるものです。私たちが 私たちの心の大地に今沈めた私たちの礎石に基いて、宇宙が人間存在と人間生活と人間活 動に語るべきことが、至る所から人間存在と人間生活と人間活動の中に語るために、それ が宇宙の中で作用するように置かれるでしょう。

人間の魂よ! お前は手足の中に生きている、 お前を空間の世界を経て 精神の海の存在へと運んでいく:精神の想起を行え 魂の深みの中で、 支配する 宇宙創造者の存在の中で 自分の自我が 神の自我の中に 生まれる; そしてお前は真に生きるであろう 人間の宇宙の存在の中で。

何故なら高みの父の精神が支配しているから 宇宙の深みで存在を生み出しつつ: 貴方々諸力の精神よ、

高みから鳴り響きますように、
深みにおいてこだまを見出すものが;
このものが語る:
神的なものから人類が生まれる。
それを東、西、北、南の霊が聞く:
人間がそれを聞きますように。

人間の魂よ!
お前は心臓-肺の鼓動の中に生きている、
お前を時のリズムによって
自分の魂の感情へと導いてゆく:
精神の内省を行え
魂の平衡の中で、
波うつ
宇宙の生成の行為が
自分の自我を
宇宙の自我に
結びつける;
そしてお前は真に感ずるであろう
人間の魂の活動の中で。

何故ならキリストの意志が周りに支配しているから
宇宙のリズムの中で魂に恵みを与えつつ:
貴方々光の精神よ、
東から燃え立たせますように、
西から形成されるものが;

このものが語る:
キリストにおいて死が生となる。
それを東、西、北、南の霊が聞く:
人間がそれを聞きますように。

人間の魂よ!
お前は安らぐ頭部の中に生きている、
お前に永遠の根拠から
宇宙の思考を解きあかす:
精神の直観を行え
思考の安らぎの中で、
永遠の神々の目標が 宇宙の存在の光を
自分の自我に自由な意志に贈っている;

そしてお前は真に思考するであろう
人間の精神の根底において。
何故なら精神の宇宙の思考が支配しているから
宇宙の存在の中で光を嘆願しつつ:

貴方々魂の精神よ、
深みから請い求めますように、
高みで聞かれるものが;

このものが語る:
精神の宇宙の思考の中で魂が目覚める。
それを東、西、北、南の霊が聞く:
人間がそれを聞きますように。

そして、親愛なる友人の皆さん、それを聞きますように。そして皆さん自身の心の中に 響きますように! その時皆さんは、ここでアントロポゾフィアのための人間の真の協会 を築くことでしょう。そして12面体の愛の礎石の周りに輝く思考の光の中に支配する精 神を、人間の魂の前進のために、宇宙の前進のために、輝き、あたためるところに、世界 に、運び出すことでしょう。

クリスマス会議開会講演

1923年12月24日 ドルナッハ / ルドルフ・シュタイナー

訳:上松佑二 『アントロポゾフィア』2007年1-2月号~2008年5-6月号連載

クリスマス会議開会講演(1)

私の親愛なる友人の皆さん! 私たちは、鋭いコントラストを見ながら、新しい形のアントロポゾフィー協会の設立の ために、クリスマス会議を始めます。私の親愛なる友人の皆さん、私たちは皆さんをガレ キの山の訪問に招待しなければなりませんでした。皆さんがドルナッハのゲーテアヌムの 丘に登った時、皆さんが先ずここで広げる視線は、一年前に崩壊したゲーテアヌムのガレ キの山にとまりました。そして言葉の最も真なる意味に於いて、そうです、この光景は、 この地の、また世界に向かうアントロポゾフィーの基盤における私たちの仕事、私たちの 努力の外的な現われであり、心に深く語りかける象徴であるのみならず、ガレキの山のこ の光景は、今日の世界の諸関係そのものにとっても幾重にも象徴的なものなのです。 私たちは過去数日間、もっと小さなサークルの中で、先ず、一種のガレキの山を見なけ ればなりませんでした。そしてこのガレキの山も、私たちの親愛なる友人によって、10 年間にかくも貴重な、愛すべきものになったゲーテアヌムのガレキの山と似た意味で見ら れてよいものです。私の親愛なる友人の皆さん、20年の経過の中でアントロポフィーの 衝動として世界を通過して行った衝動の大部分は、ベルリンの哲学・アントロポゾフィー 出版社において、先ず世界に登場した、あの余りに多くの書物の中にあったと言っても多 分よいでしょう。皆さんは《哲学・アントロポゾフィー出版社》というタイトルの下に要 約されるものと20年間の仕事が本当に結ばれているから、この哲学・アントロポゾフィー 出版社の設立と運営に共働していた人の心からのものもまた、それに係っていることも理 解できるでしょう。そして丁度ゲーテアヌムの場合のように、私たちはこの哲学・アント ロポゾフィー出版社と共に、外的なものに関してはガレキの山の前に立っています。この 場合、この哲学・アントロポゾフィー出版社がこれまであったこの領域に支配する恐ろし い経済関係の中で、あらゆる可能性を越えて、全く異常な程に大きくなってゆく税金の関 係の下で、その全てによって、時代の出来事の波が――それを全く文字通りの意味で言う ことができますが――この出版社を叩き壊したからこそそうなのです。

さて、シュタイナー博士夫人は、先週この哲学・アントロポゾフィー出版社に錨を下ろ しているものを、既に、ここゲーテアヌム、ドルナッハに旅立つよう、手配をしました。 そして皆さんは、既にこの下の、ハイツ・ハウスと建築家事務所の間に小さな建物が生れ るのを見ています。それは、将来において、この哲学・アントロポゾフィー出版社、つま り、この本の在庫を収納すべき建物です。私たちは、そこでも外的には、先ずガレキの山 について話さなければならないものの一部をもっています。 そして私の親愛なる友人の皆さん、私たちはこのガレキの山が生み出したものとは別の ものを今日の時代の出来事と関連させることができるでしょうか?それは先ず、重苦しい 姿として既に私たちの前に立っています。そして一年前の新年の夜、ここで私たちの物理 の目の前で恐ろしく、私たちの魂の目の前で、切りさかれるように天の高みへと燃え上っ たあの炎、この炎を私たちは全く精神に於いて、過去20年間に建てた多くのものの上に 見ていると言えるでしょう。 これは差し当っては私たちの魂の前に置かれている映像です。しかし、外的なものはマー ヤであり、幻影である、という古代オリエントの直観についての真理ほど、現代では直接 人の意を迎えるものは恐らくない、と私は言わねばなりません。そして私の親愛なる友人 の皆さん、私たちがその前に立っているガレキの山は、マーヤであり、幻影であるという 感覚を心の中で活発にする時、私たちはこのクリスマス会議に対する正しい気分を見出す でしょう。私たちを直接ここで囲んでいるものの多くはマーヤであり、幻影である、とい う感覚です。 私たちの最も直接的な状況から先ず考えましょう。私たちは皆さんをこの木造の板囲い の小屋に招待しなければなりませんでした。私たちは、これを仮設として二日間で建てな ければなりませんでした。何故なら、私たちの友人のどれ程多くがこの日に現われるかが、 その時初めて明らかになったからです。私たちは、この仮設の木造板張小屋をすぐ隣りに 建てなければなりませんでした。そして私はためらうことなく、私たちの集会のこの外的 被いは、ガレキの山の直中の施設として、貧しい、恐ろしく貧しい施設として立っている、 と言わざるをえません。友人は、私たちが提供できたものの中で恐ろしく、こごえること から昨日の序曲は始まりました。しかし、皆さんにここで出会うものの多くがそこから出 てゆくこの厳寒をも、私の親愛なる友人の皆さん、私たちはマーヤ、幻影に加えたいと思 います。そして私たちをここで囲んでいる外的なものは、マーヤであり、幻影であるとい うこの気分に入ってゆけばゆくほど、私たちは、続く日々に私たちがここで必要とする、 あの力強い気分をよりよく発展させることができるでしょう。それは決してネガティヴで はありえない、あの気分であり、いかなる細部においても、ひたすらポジティヴでなけれ ばならない、あの気分です。そして火災の災いが、ここで、私たちのゲーテアヌムのクー ポラから吹き出してから一年の今、アントロポゾフィー運動が存続する20年の間に、精 神的なものとして構築されたものは、私たちにとっては、貪る炎のようにではなく、構築 する炎のように、私たちの心と魂の前に立つことができます。何故なら、アントロポゾ フィー運動の精神的内容から、至るところで、あたたかさが私たちの心をひくからです。 このあたたかさは、未来の精神生活にとって、まさにドルナッハの大地と大地に属するも のが秘めている無数の種子を生かすことができるでしょう。そして、未来の無数の種子は、 ここで私たちを囲むこのあたたかさによって、その成熟を展開し始め、私たちがその成熟のために行いたいと思っていることによって、充実した果実としていつか世界の前に立つ ことができるようになるでしょう。 何故なら、これまで以上に私たちは、アントロポゾフィーの名によって包括するような 精神運動は、地上的な恣意から生まれたものでは全くないことを忘れることはできないか らです。そして私は、私たちの会議の初めに先ず、次のことに注意を促すことから始めた いと思います。19世紀の最後の三分の一は、一方では唯物論の波が高まり、唯物論のこ の波に、世界の他方から偉大な啓示が打ち込まれた、ということに。それは敏感な情緒の 理解をもつ人が精神生活の諸力から受けとることができる、精神的なものの啓示です。精 神の啓示が人類のために開かれました。そして地上的な恣意からではなく、精神界から鳴 り響く呼び声の遵守から、地上的恣意からではなく、精神界からの近代の啓示として、人 類の精神生活のために生じてきた偉大な映像を見ることによって、そこからアントロポゾ フィー運動は、地上の勤めではなく、このアントロポゾフィー運動は、その全体において、 その全ての細部において、神々の、神の勤め(ミサ聖祭)です。そして私たちが、それを その全体においてこのような神の勤め(ミサ聖祭)として見る時、私たちはそれに対する 正しい気分に出会います。そして私たちは、この会議の初めに、この気分をこのようなも のとして私たちの心の中に受け入れたいと思います。このアントロポゾフィー運動は、そ れに身を献げるそれぞれの個人の魂を精神界におけるあらゆる人間的なものの源泉と結び つけようとすることを、このアントロポゾフィー運動は、人間を地球の人類の発展の中で、 当分満足すべき、あの最後の開悟へと導こうとすることを、私たちの心の中に深く書き留 めたいと思います。その開悟は、始まった啓示について、私は人間として、地上において 神に望まれた人間として、宇宙において神に望まれた人間として存在している、という言 葉に包まれるものです。

クリスマス会議開会講演(2)

私たちは今日、私たちが既に1913年に喜んでそれに結びついてもよかったことに結 びつきたいと思います。そこで、私の親愛なる友人の皆さん、私たちはその糸を再び受け 入れたいと思います。そしてその被いをアントロポフィー協会の中にもつべきアントロポ ゾフィー運動のために、最上位の命題として私たちの魂に次のことを書き留めたいと思い ます。協会の中で全ては精神によって望まれており、協会は、時代の印が輝く文字によっ て人間の心に語りかけるものを満すものでありたい、と。 私たちがアントロポゾフィー運動を私たち自身の中で最も深い心の事柄にすることがで きる時にのみ、アントロポゾフィー協会は成り立つでしょう。私たちにそれができない時、 協会は成り立たないでしょう。何故ならここでこれからの日々に行われる全てのうち最も 重要なことは、私の親愛なる友人の皆さん、皆さんの全ての心の中で行うことなのです。 私たちが語り、聞くことに私たちの心臓の血液が脈打つことができる時にのみ、それを正 しくアントロポゾフィーの事柄の出発点にするでしょう。この理由から実際、私の親愛なる友人の皆さん、私たちは皆さんを本物のアントロポゾフィーの意味で、ハーモニーを心 から呼び起すために皆さんをここにお呼びしました。そして私たちは正にこの呼びかけが 正しく理解されるという希望に身を任ねています。 私の親愛なる友人の皆さん、アントロポゾフィー運動がどのように始まったかを思い出 して下さい。この運動の中には、20世紀の到来に対する精神的啓示であるものが極めて 多様な形で作用しました。 そして多くのネガティヴなものに対して、それでも確かなポジティヴなものがここで強力 に表現されるでしょう。つまり、外的社会のあれこれを通して内的なサークルに流れこん だ精神生活の多様な形成が、本当に私たちの愛すべきアントロポゾフィーの友人の心を把 えたのです。そして私たちは、人間的な心と魂の事柄とがいかに偉大な宇宙的出来事と人 類の発展の偉大な歴史的出来事と結ばれているかを、特定の時点で神秘文学として示すよ うに進むことができました。そして個々の人間の魂の、宇宙に於ける魂的、精神的、神的 作用との関係に関するものの多くは、ミュンヘンで神秘劇が上演された、親しく貴重な4 年、5年の間、私たちの友人の魂を引きつけた、と私はやはり思います。 それから皆さんが、その破壊的な作用として誰もが知っているものがやってきました。 いわゆる世界戦争です。あらゆる努力は、あの困難な時代に、この世界戦争の間に必然的 に生じざるをえなかったあらゆる障害と妨害を潜り抜けられるように、アントロポゾフィー の事柄を導くことに向いました。 さて、時代の諸関係の必然性から行われたかなりのものは、私たちのアントロポゾフィー の友人のサークルの中でも誤解されたことは否定できません。人類を過去10年間、あり とあらゆる人間のグループに分裂させたあの雰囲気、この世界戦争がもたらした気分につ いて、相応しい形では未来に於いて始めて大多数の人間によってある判断が得られること でしょう。今日人は正にこの世界戦争の結果として、私たちすべてのもとに生きている恐 ろしいものを、まだ決して正しく判断してはいません。そして、アントロポゾフィー協会 は――運動ではなく――ある形で、既に世界戦争から分裂した形で生まれてきた、と言っ てもよいでしょう。 そして私たちの親愛なる友人シュテフェンさんが既にそのことを暗示しましたが――少 なからず誤解されやすい形で私たちのアントロポゾフィー協会の中に持ち込まれた幾つか のことがやってきました。それでも私は今日、本質的にはポジティヴなことについてのみ お話ししたいと思います。この集会が正しく進む時、この集会が精神的―エソテリックな ものが、いかに私たちのすべての活動と本質の基盤であらねばならないかを正しく意識す る時、至るところに存在しているあの精神の種子は、皆さんの気分と皆さんの情熱によっ てあたためられ、伸びることができるでしょう。そして私たちは今日、一方では、その真 の真摯さの中にそれを受け入れることを理解する気分をもちたいと思います。それは、外 的なものはマーヤであり、幻影であり、そのマーヤと幻影から芽が出てくる、――私たち の弱みにひたるのではなく、私たちが発展させたいと思う私たちの力、意志に夢中になっ て、目に見えない形で私たちのもとに生きているもの、多数の種子の中に目に見える形で 私たちのもとに生きうるものが芽を出すという気分です。私の親愛なる友人の皆さん、こ の魂がこの種子を受け入れる用意を、皆さんの魂がして下さい。何故なら皆さんの魂は、 この精神の種子の発展のための、成長のための、萌芽のための正しい大地であるからです。

そして、この精神の種子が真理です。それが太陽の光によって輝き出し、私たちの外的視 線がその上に落ちるすべてのガレキの山を照らします。アントロポゾフィーの最も深い要 求を、そもそも全ての精神的なものを、まさに今日、私たちの魂の中で光らせましょう。 外的にはマーヤと幻影が、内的には充分発展する真理が、充分発展する神の―精神の生命 があります。アントロポゾフィーはその中で真理として認識されるものを生きるもので す。 私たちはどこでマーヤの教えと真理の光の教えを生きるでしょうか? 私たちはとりわ け、この私たちのクリスマス会議の間、それを生きましょう。この私たちのクリスマス会 議の間に、心の貧しさを自らの内に担っている羊飼いの前に、そして全世界の英知を自ら の内に担っている王の博士たちの前に、宇宙の光を輝かせ、この燃え上がるクリスマスの 光、クリスマスの宇宙の光を、私たちの自らの心と魂によって起るものの象徴となるよう にしましょう! これらの言葉以上になお言うべきことを私は明日、アントロポゾフィー協会の定礎式に おいて語るでしょう。今はしかし、私の親愛なる友人の皆さん、次のことを皆さんにお話 ししたいと思います。先週私の魂に深く入ってきたある問いのことを語りたいと思います。 それはこのクリスマス会議において、何が実際出発点となるべきか、アントロポゾフィー 協会が成立してから10年間の経験は何を教えているか?という問いです。 そして私の親愛なる友人の皆さん、そのすべてから私にとって二者択一の問いが生まれ ました。私はよき理由から1912年、1813年に、アントロポゾフィー協会はこのよ うなものとして、自ら管理しなければならない、今や自らで運営しなければならないと語 りました。そして私は、助言を与える者の立場、直接その運営には係わらない者の立場に 身を引かなければならない、と。さて、今日事柄は次のようになっています。先週困難な 内的克服の後に私の内にある認識が昇ってきました。それは、私が今再び自らあらゆる形 式に於いても指導を、とりわけゲーテアヌムのドルナッハに設立される、アントロポゾ フィー協会の代表を引受けることにこのクリスマス会議が賛成しないとすれば、私はアン トロゾフィー運動をアントロポゾフィー協会の中で更に導くことはできないだろう、とい う認識です。 シュトゥットガルト会議の間、ドイツ協会を二つの協会に分けるという助言を与える、 あの困難な判断を下すことが、私にとって必要になりました。それは古い協会の継続と、 特に若者が代表すべき協会、自由アントロポゾフィー協会の設立です。 私の親愛なる友人の皆さん、この助言を与えることは当時困難な決断でした。それは基 本的にはこのような助言はアントロポゾフィー協会のあらゆる根本に矛盾するという理由 からむつかしい決断でした。ここ地上界において、人間の集まりが、今日の若者がその中 で充分守られていると感ずるような場所ではないとしたらどうでしょうか!それは異例の ことでした。そしてそれが恐らく、ここに新たに設立されるべきアントロポゾフィー協会 に於いて、自ら代表を引受けることができる時にのみ、私はアントロポゾフィー協会の中 でアントロポゾフィー運動を更に導くことができる、と皆さんに語る決断に流れ込んだ最 も重要な兆候の一つでした。それは世紀の変り目と共に、精神的な出来事の内部で深く深 く何かが進行した、ということであり、その何かとは、地上で人間がその下に立っている 外的出来事にその作用として現われてくるものです。

クリスマス会議開会講演(3)

最大の飛躍の一つは精神の領域で起りました。それは70年代の終りに準備され、世紀 の変り目と共に丁度その頂点に達しました。古いインドの英知はそれをカリ・ユガの終焉 として示しました。私の親愛なる友人の皆さん、それによって多くの、多くのことが語ら れています。そして私が最近様々な形で世界のあらゆる、私に開かれた国々の若い友人に 向い合う時、――繰り返し繰り返し――私は、この若者の心の中に脈打つもの、このよう に美しくしばしば実に定まらない形で精神的な活動に向って燃え上るものは、19世紀の 最後の三分の一から20世紀に至るまで、精神的な宇宙の営みの最も深い内面で起ったこ との外的現われである、と言わねばなりませんでした。そして私の親愛なる友人の皆さん、 それはネガティヴなものでは全くありません。私が今言いたいことは、私にとって、ポジ ティヴなものです。私が、あれこれに合流しようと再び努力した若者を丁度迎えた時、そ の統合の形はしばしばいつも、そこで本来望まれたものに相応しいものではありませんで した。このような協会に所属すべき時、人はいかにあるべきか、何をしなければならない かの、あれこれの条件が繰り返し繰り返しありました。 皆さんが御覧のように、アントロポゾフィー協会がそこから成長したテオゾフィー協会 の根本的な欠陥はその三つの根本命題の表現にあった、という感情に全ては集約されまし た。そこではあるものに信条告白をしなければなりませんでした。そして受け入れの書式 に署名をしなければならない、その方法は何かに教条的に信条告白をしなければならない ような外観をもっていて、それは現代人の魂の基本的理解には最早全く合わないものです。 今日の人間の魂は、感覚としてはあらゆるドグマに対して疎遠であり、根本に於いてはあ らゆるセクト的なものに対して疎遠です。そして正にこのセクト的な本質をアントロポゾ フィー協会の中からそぎ落とすことが困難であることは否定できません。しかしそれはそ ぎ落とされなければなりません。そしてその一糸もまた未来においては、新たに設立され るべきアントロポゾフィー協会の中にあってはなりません。それは本当の世界協会でなけ ればなりません。この協会では、それに入ろうとする人が次のような感情をもつに違いあ りません。そうです。私はここに私を動かすものを見出す、という感情です。そこで老人 は次のような感覚をもつに違いありません。私はそこで生涯、他の人間と共に得ようと努 めてきたものを見出す、という感覚です。そこで若人は次のような感覚をもつに違いあり ません。私はそこで青年を迎えるものを見出す、という感覚です。――何故なら、自由ア ントロポゾフィー協会が設立された時、自由アントロポゾフィー協会への受け入れ条件は 何か?という問いに、私は当時既に多くの若い友人に喜んで答えたことでしょう。――私 が今答えとして与えたいものを当時既に喜んで答えたことでしょう。その条件とは、現代 のあらゆる衝動がこの若い魂を満たす時に若い、という意味で本当に若いということに他 なりません。

そして私の親愛なる友人の皆さん、世界の若々しさとして今日精神的な背景から人類の 中へ、私たちのあらゆる生活領域を刷新しつつ老若に湧き起るものに対する心をもつ時、 アントロポゾフィー協会において正しい意味で老いるとはいかなることでしょうか? 私は、アントロポゾフィー協会を自ら代表するという課題を引き受けるよう、私を動か したものを気分に即して皆さんに暗示したいと思います。このアントロポゾフィー協会は、 既に様々な名称を見出しました。――このようなことはしばしば起ります。――こうして 例えばこの協会は、国際アントロポゾフィー協会という名称を見出しました。さて、私の 親愛なる友人の皆さん、これは国際的な協会ではなく、国々の協会でもあるべきではあり ません。そして私はここで国際協会という言葉を決して使うことのないように、そして、普遍アントロポゾフィー協会がある、とだけ語ることを心からのお願いとして語りたいと 思います。協会はその中心をここドルナッハのゲーテアヌムにもとうとしています。そし て定款は、あらゆる管理的なもの、いつか自ずと官僚主義に転化する動機を与えるかもし れない全ては、この定款から外れるように作られているのを皆さんは理解するでしょう。 この定款は純粋に人間的なものに向けられています。それは原理には向けられていません。 そうではなくて、この定款では、私の親愛なる友人の皆さん、純粋に事実的・人間的なも のに結びつくものが語られています。この定款の中ではここドルナッハにゲーテアヌムが 存在する、ということが語られています。このゲーテアヌムは、一定の方法で指導されて います。このゲーテアヌムでは、あれこれの仕事を行うよう試みられています。このゲー テアヌムではあれこれの仕方で人類の発展を促進することが試みられています。その言葉 がどれ程正しくあるいは誤って使われているかは、真の現代的な意味で把えられた定款に は何も書かれてはいません。しかしゲーテアヌムが存在し、このゲーテアヌムと人間が結 ばれているという事実があります。人々はこのゲーテアヌムの中であれこれを行い、この 行為によって人類の発展を促進する、と信じています。 この協会と結びつこうとする人からは、いかなる原則も要求されることはありません。 いかなる信条告白も、いかなる学問的関心も、いかなる芸術的意図も、何らかの形でドグ マとして提示されるのではなく、ひたすらその人がその中で自分の家にいると感じ、ゲー テアヌムで起ることと結ばれていると感じることが求められています。 この定款の起草に際しては、正にここに設立されるべきものを、あらゆる原理的なもの から取上げ、純粋に人間的なものの上に置くことが試みられました。それ故、ここで明日 からの日々に行われる設立に対して提案を行う人に、皆さんが信頼をもつことができるか どうか、を見てください。そしてこの設立集会において、ドルナッハで行われようとして いることを皆さんが承認されたことを明らかにして下さい。その時皆さんは事実を明らか にしたことになります。その時皆さんは、決して束縛されたのではありません。その時皆 さんは、皆さんの感覚からその事実を明らかにしたことになります。そしてその時、他の 全てのものをも認めるでしょう。そうです。それが明らかになるでしょう。その時初めか らドルナッハから信頼できる人の一群が任命されたり、指名される必要はないでしょう。 そうではなくアントロポゾフィー協会は、私が大きな満足をもって個々の邦域協会の設立 に出席した時、私がしばしば指摘したようなものになるでしょう。その時アントロポゾフィー協会は、これら邦域協会の中で形成されたものの基盤に基いて、自立的なものとし て生まれることができるようになるでしょう。

そしてこれら邦域協会は本当に自立的なものになるでしょう。その時このアントロポゾ フィー協会の中に形成されるどのグループも本当に自立的なものとなるでしょう。 私たちがこの人間的な立場に至るために、私の親愛なる友人の皆さん、私たちは今日正 に私が述べたような形で精神的な基盤に基いて築かれた協会において、正に二つの困難に ぶつかることが明らかでなければなりません。アントロポゾフィー協会の過去にそれがあっ たように未来においてはもはや、それはあってはならないようにするために、この困難を 私たちはここで克服しなければなりません。 一つの困難とは、現代に於ける時代意識が――この時代意識を正しく理解する誰もがそ れを認めると私は思いますが――起きるもの全てに対して全き公開性を要求しているとい うことです。そして確固たる基礎の上に築かれた協会は、とりわけこの時代の要求に違反 してはなりません。ある人にはあれこれに対して外的形式においても秘密が求められるこ とが、全く良いと思われるようなことがありうるでしょう。しかし、この協会のように真 理の基礎に基いてこのように築かれた協会が、この秘密をそれ自体としてまじめに要求す る時は、いつも時代意識とは矛盾することになり、それは協会の前進にとっては極めて真 酷な障害となるでしょう。それ故私たちは今日、私の親愛なる友人の皆さん、設立される 普遍アントロポゾフィー協会にとっては全き公開性が要求される他ありません。 《ルーチファー・グノーシス》に出た一番初めの文章の中で私が既に述べたように、協会 はアントロポゾフィー協会として、何らかの他の協会、例えば自然探求、あるいは類似の 目的のために設立される協会のように世界を前にして立たねばなりません。その内容とし てその血管に流れるものによってのみ、この協会は他のあらゆる協会から区別されるに違 いありません。人間が集まる形式においては、他の協会との区別は未来においてはもはや ありえません。私たちがアントロポゾフィー協会に全き公開性を認めることを初めから容 認するとき、私たちが一体何を捨て去るかを心に描いてみて下さい。

クリスマス会議開会講演(4)

私たちはひたすら現実の基盤に、つまり、現代の時代意識の基盤に身を置かねばなりま せん。それはしかし、私の親愛なる友人の皆さん、私たちの連続講義に関して、未来にお いては、過去において一般的であったのとはまったく別の慣例が登場することを条件付け ています。この連続講義の歴史は、私たちのアントロポゾフィー協会の発展の中の悲劇的 な一章です。この連続講義は先ずあるサークルの中でそれを受け取ることが出来る、と思っ たことから出版されました。それはアントロポゾフィー協会に属する人々のために出版さ れました。今日ではもう協会に属する人自身よりも、事柄に関する外的な公表に関しては 敵対者の方が私たちの連続講義により多く関心をもつような状態になっています。内的に ではありません。皆さんは私を誤解してはいけません。内的にではありません。私たちの 協会に属する人は既にこの連続講義と内的に係わっています。しかしそれはただ内的に留 まっています。それは正にエゴイズムに留まっています。たとえ美しい協会のエゴイズム

であろうとも。世界にその波を打ち出す関心、協会が世界に対して判を押す関心、この関 心を今日では敵対者が連続講義に向けています。そして連続講義が今日出版され、三週間 のうちに最悪の敵対者の文献の中で引用されているのを私たちは体験します。私たちが連 続講義の古い習慣を更に続けるなら、私たちは目を砂の中に埋め、私たちには闇だから、 世界の外も闇だ、と信じているようなものです。

それ故に私にとって既に数年来,と言いたい問いが生れました。連続講義をそもそもど うすべきか?という問いです。そして今日では、これまで物理的に引こうとした境界が、 至る所で打破られる、この境界壁を道徳的に引く以外の可能性はありません。 私はそれを定款の起草で行おうとしました。連続講義は全て未来に於いては、丁度他の 書物のように、例外なく公開して販売されるべきものです。しかし、私の親愛なる友人の 皆さん、どこかに偏微分方程式の解法に関する本があると考えてみて下さい。その本は大 多数の人間にとって大変エソテリックなもので、偏微分方程式、又は、線型微分方程式の 解法と有効に係わるエソテリックなサークルは今もこの二つの水門の中で非常に小さなサークルであるにしても、多分私は決して誤っていません。つまり線型又は、偏微分方程式の 解法に対するこのエソテリックなサークルを、小さくしておくことはできます。しかし、 この本をあらゆる人に販売することができます。しかし、偏微分方程式について何も理解 していないだけではなく、そもそも微分も積分もできない人が来ても、その人は、対数の 本とはかつて彼の息子の一人がもっていたもの、以外のことは多分何も知らないでいて、 父親としては対数については何も知りませんでした。しかし息子たちは対数とは何かを学 ばなければなりませんでした。そこで彼は対数の本を見て、次から次へと数値が出てくる のを見ても、それについては何も理解しませんでした。そこで息子達が彼に、それは世界 中のあらゆる都市の家の番号だ、と言うと、父親はそのようなことを学ぶのは大変よいこ とだ、パリに行くとあちこちの家の番号が何番かを直ちに知ることになるから、と父親は 考えました。 ある事柄について何も理解しない人が、この事柄について判断を下すのは無害であるこ とも皆さんは理解します。何故ならあれはディレッタントだ、素人だ、と言うからです。 そして生活そのものが判断できる能力と、できない能力に関して境界を設けています。 それ故私たちのアントロポゾフィーの認識の中では、物理的な方法ではなく、少なくと も道徳的な方法で更に境界を引く試みがなされるでしょう。私たちはそれを得たいと思う 人皆に、連続講義を販売します。しかし私たちは、誰がこの連続講義の判断に能力がある と思われるかを明言します。それによって私たちは彼の判断に何かを委ねるのです。他者 は誰もが連続講義に対して素人です。そして私たちは連続講義に関して、将来は素人の気 に入るような判断を最早全く認めないことを明言します。それが私たちが見出しうる唯一 の道徳的な保護なのです。私たちがそれを正しく行う時、私たちの事柄は、偏微分方程式 の解法に関する書物のように把えられるまでになるでしょう。その結果、誰かがたとえ他 の事柄においても、ある連続講義について判断を下す場合、対数を全く知らない人が判断 を下し、偏微分方程式についてこの本に書かれていることには多くの誤りがあると言うと したらそれは不合理であるように、不合理だということを次第に理解するようになるでしょ う。――素人と専門家の間の区別もまた正しく行われるところまにで、私たちはそれを導 かなければなりません。

私の親愛なる友人の皆さん、私たちに大きな困難を用意する更なるものは、アントロポ ゾフィー運動の活気が至る所で一貫して正しく評価はされていないということです。アン トロポゾフィー運動を、人類の発展にとって解体されるべきものと併列させることによっ て、全く否定しようとする判断を、あちこちで聞くことができます。最近また私には初め て次のようなことが起きました。アントロポゾフィーが与えるものを、あれこれの人々の 前にもっていくと、それをしかも最も強力な実践家たちが受け取ります。彼らにはアント ロポゾフィーや三分節について語ってはならない、これを否定しなければならない、とあ る人がわたしに言いました。――御覧のようにそれは多年来、多くの人によって奨励され てきたことです。それは私たちが行いうる最も間違ったことです。私たちは至る所で、い かなる領域であろうとも、全て真理の印の下に、アントロポゾフィーの本質の提唱者とし て世に登場しなければなりません。そしてそれができない限り、私たちは実際、アントロ ポゾフィー運動を促進することはできないことを意識していなければなりません。アント ロポゾフィー運動への全てのヴェールに被われた出来事は結局の所いかなる治癒にも導き ません。 このような事柄に於いては勿論、全てが個的なものです。全ては一つの型に嵌められて はなりません。私が実際意図していることは、しかしこのことです。私はそれをより多く の例によって私が意図することを明らかにしたいと思います。 オイリュトミーがあります。オイリュトミーは、私が昨日オイリュトミー公演の初めに も語ったように、実際アントロポゾフィーの本質の最も深い根底から汲み取られ、育まれ ています。そして今日まだ実に不完全であろうとも、オイリュトミーによって、全く根源 的なもの、第一義のもの、他の何かとは決して比較されてはならないもの、今日一見似た ものとして世に登場するものと比較されてはならないものが世に提示されていることを意 識していなければなりません。私たちはこの情熱を私たちの事柄に向けてふるい起こさな ければなりません。私たちは外的な表面的な比較の可能性を排除しなければなりません。 このような命題がいかに誤解されうるかを私は知っています。しかし、親愛なる友人の皆 さん、それでもここで皆さんのサークルの中でそれを言明します。何故ならそれはアント ロポゾフィー協会の中のアントロポゾフィー運動の発展にとって基本条件の一つを表わし ているからです。 同じように私は例えば最近多くの血の汗を流さねばなりませんでした。――それは勿論 象徴的な意味です。――私たちの協会の中でシュタイナー博士夫人によって形成されたあ の朗唱と朗読の形式についてのありとあらゆる討論に関するものです。オイリュトミーと 同様この朗読と朗唱の根本は、アントロポゾフィーの基礎から取り出され、育まれるもの ですから、この根本の真髄に身を置かねばなりません。それを認識しなければなりません。 そしてあちこちで、他の類似の形式の中の良いものとして、しかもより良いものとして存 在しているものの何らかの断片を導入すると、より良いものが生れてくるようなことを、 信ずるのではなく認識しなければなりません。この根源的なもの、この第一義的なものを、 私たちのあらゆる領域で意識していなければなりません。 第三の例としてアントロポゾフィーが特に実り豊かなものになりうる領域の一つは医学 的なものです。アントロポゾフィー運動の中の医学的な領域の中で、アントロポゾフィー がそれとして背景に押しやられ、私たちの事柄の医学的部分を今日の観点から医学を提唱する人々の気に入るように私たちが提唱する傾向がある時、アントロポゾフィーは必ずや 医学的なもの、特に治療学にとって実りなきものに留まるでしょう。私たちはあらゆる勇 気をもってアントロポゾフィーを、個々の全てに、医学的なものにも運び込まなければな りません。その時にのみ、私たちは狭義のアントロポゾフィーそのもの、オイリュトミー があるべきもの、朗読と朗唱があるべきもの、医学があるべきもの、私たちのアントロポ ゾフィー協会の中に個々のものとして生きている、他の多くのものを成就しなければなら ないように成就します。 御覧のように、普遍アントロポゾフィー協会の設立のための私たちの会議の始まりに、 心の前に提示されなければならない根本条件を私は少なくとも皆さんに暗示しました。協 会は暗示された意味において、信念の協会であり、定款の協会ではありません。定款は魂 の中で生々としているものをただ外的に表現しなければなりません。

クリスマス会議開会講演(5)

さて、私は今とりわけ先ず急いでここに暗示したような方向に位置づけられる定款の提 案を朗読したいと思います。

《アントロポゾフィー協会定款》

1、《アントロポゾフィー協会は、個々の人間および人間社会における魂の生活を、精神 界の真の認識の基盤に基いて育成しようとする人間の集まりである。》

2、《この協会の基盤をなすのは、1923年のクリスマスにドルナッハのゲーテアヌム に集まった人々である。それは個々人であり、またグループの代表でもあった。その人々 は多年来探求され、今日では重要な部分が既に公開されている、精神界についての本当の 学問が存在するという見方、そして今日の文明にはこのような学問の育成が欠けていると いう見方に貫かれている。アントロポゾフィー協会はその育成を使命とする。アントロポ ゾフィー協会は人間の社会生活における友愛のために、そして人間の本質における道徳的・ 宗教的・芸術的かつ普遍的・精神的な生活のために、ドルナッハのゲーテアヌムで育成さ れるアントロポゾフィーの精神科学とその成果を努力の中心点としてこの使命を果そうと するものである。》 私の親愛なる友人の皆さん、協会はこれによっていかに原則に基いてではなく、人間に、 ここに集まった人間に基いて築かれているかに気づくでしょう。そして、これに加わって くる他の人々は何を表明するでしょうか。他の人々は、ここにあるものに関して、本質的 にはこれらの人々と理解し合っている、ということです。こうしてあらゆる抽象を度外視 して、このアントロポゾフィー協会は、人間に基いて築かれています。

3、《ドルナッハの協会の基盤として集まった人々は》――該当する人物が至る所にいる ことを皆さんは知っています――《次の事柄に関して、ゲーテアヌム指導局の見方に賛同 し、それを承認している。“ゲーテアヌムで育成されるアントロポゾフィーは、国籍や身 分、宗教の相違に関わりなく、精神生活を鼓舞するものとして、あらゆる人間に奉仕する ことが出来るような成果を招来する。その成果は実際兄弟愛の上に建てられた社会生活を 招来することができる。人生の基盤としてこれらを習得することは、学問的教養の程度に ではなく、とらわれのない人間の本質にのみ結びついている。”》 それによってここに成果として現われるものは、とらわれのない人間の魂として受け入 れることができる意味において、あらゆる人間に理解できるものであることが表現されて います。 それはしかし、この成果に導くものについての探求とは幾分異なったものであり、それ が直ちに表現されます。この探求は厳密に区別されなれければなりません。それ故更に次 のようになります。 《その探求と探求成果に対する事実に即した判断とはしかし、段階的に到達される精神 科学の修行によって左右される。この成果はそのあり方において真の自然科学の成果と同 様に厳密である。その成果が自然科学の成果と同様に一般的に認められるようになるなら ば、自然科学と同様の進歩を、あらゆる生活領域において、すなわち精神的のみならず実 際的領域においてもまたもたらすであろう。》

4、《アントロポゾフィー協会は何等秘密結社ではなく、全く公開の協会である。精神科 学自由大学としてのドルナッハのゲーテアヌムのような機関の存在の中に意味あるものを 見る人ならば、国籍、地位、宗教、学問的あるいは芸術的確信の相違に関わりなく、誰も が会員になることができる。》 私の親愛なる友人の皆さん、ここでは何によって人は会員になりうるかが厳密に問題に なる、と語られるのではなく、会員になろうとする人は、ゲーテアヌムの存立に、《精神 科学自由大学としてのドルナッハのゲーテアヌムのような機関に、意味あるものを見る人》 とだけ注意がなされていることを理解するでしょう。――皆さんはこの定款の起草の全て の個々の言い廻しに沿って徹底的に考えてみなければなりません。それは短いものです。 定款は短いものでなければなりません。一冊の本を書くべきではありません。しかしそれ ぞれの個々の言い廻しが直接的な意識から書かれたように与えることが試みられているこ とを皆さんは理解するでしょう。 《協会は、いかなる宗派的な志向をも拒否する。協会は政治がその使命の内にあるとは 見なさない。》 この一文を私たちは必要とします。何故なら三分節の時代に私たちの多くの会員の、と りわけ明瞭ではない態度から多数の誤解が生まれたからです。それは始めからこれら友人 の誤りでしたが、三分節の事柄は、私たちの友人によって様々に政治的党派にもちこまれ ることによって、――アントロポゾフィーは決してそうはしなかったし、決してそうはし えないのに――アントロポゾフィーを世界の政治的な機会に混入させようとしているかの ごとき様相を様々に呈してきました。

5、《アントロポゾフィー協会は、その活動の中心をドルナッハの精神科学自由大学に見 ている。大学は三クラスから成るであろう。》 私の親愛なる友人の皆さん、この三クラスについてどうか驚かないでください。三つの クラスは元々、アントロポゾフィー協会の中に既にありました。ただ1914年までは別 の形でありました。 《ゲーテアヌムの指導局によって決められている期間会員であった後、協会の会員は申 請によってそのクラスに受け入れられる。その会員はそれによって精神科学自由大学の第 一クラスに達する。第二クラスないし第三クラスに受け入れられるのは、ゲーテアヌムの 指導局によって申請者がそれにふさわしいと見なされる場合である。》

6、《アントロポゾフィー協会会員の誰もがこの協会によって開催される講演、そのほか のあらゆる催しや集会に、理事会によって知らされる条件の下で参加する権利をもってい る。》

7、《精神科学自由大学の設立は、当面ルドルフ・シュタイナーの責任の下にあり、彼は その協力者と必要な場合の後継者を任命しなければならない。》 私はここで既にこの精神科学自由大学を未来において個々の部門に分けるつもりである ことに注意し、その指導のために私はそれに相応しい人物を招聘することでしょう。ドル ナッハの精神科学自由大学を個々の部門で指導する相応しい人物は、同時に私がすぐ後で お話しする形成中の理事会の助言者でもあるでしょう。

8、《協会の全出版物は他の公開の諸団体のそれと同様に公開のものとなる。この公開性 については精神科学自由大学の出版物もまた例外ではない。》連続講義は未来は――精神 科学自由大学出版物―― と呼ばれるでしょう。《しかし大学の指導局は次のことを要求する。すなわち、修業から 生まれて来ているこれらの著作について、この修業に基づくことのないいかなる判断に対 しても初めからその正当性を疑問視する。大学の指導局はこの意味で、ふさわしい予備研 究に基づいていないいかなる判断をも正当なものと認めないであろう。それは他の公認の 学問の世界においても慣例であるのと同様である。それゆえ精神科学自由大学の出版物―― それは未来において連続講義であろう――は次のような註を付記している。》《精神科学 自由大学ゲーテアヌム・・・クラスに属する人のための草稿として印刷された。この大学に よって、あるいはこの大学がそのものから同等と認められた方法に基づいてこの大学が有 効と認める予備的認識を獲得していない何人も有効な判断を下す資格はない。》 誰もが買うことはできます。判断できるのは当該のクラスに属する人だけです。そこに は以下の注が印刷されます。《精神科学自由大学ゲーテアヌム・・・クラスに属する人のた めの草稿として印刷された。》と。 《対応する著作の著者がこの文献についての議論を認めない限り、他の判断は受け入れ られない。》

クリスマス会議開会講演(6)

9、《アントロポゾフィー協会の目標は、精神的領域における探求の促進であり、精神科 学自由大学の目標は、その探求そのものとなる。アントロポゾフィー協会からはいかなる 領域におけるドグマも排除されるべきである。》

10、《アントロポゾフィー協会は、毎年ゲーテアヌムで正規の年度集会を開催する。その 中で、理事会から充分な報告が与えられる。この集会の日程は全会員に対する招待と共に 会議の三週間前までに理事会から通知される。》 それについては決議がなされることでしょう。 《理事会は臨時の集会を召集し、そのための日程を決定することもできる。理事会は開 催三週間前までにその招待を会員に送らなければならない。個々の会員あるいはグループ からの提案は、会議の一週間前までに送付されなければならない。》 ここでは会員の側からも臨時集会が要求される、という一文を加えることが重要です。

11、《会員はそれぞれの地域ならびに分野において大小のグループに属することができ る。》 普遍協会にとっては、どのグループも国のグループもこの条文に含まれています。普遍 協会は国際的でも国民的でもなく、それは普遍的人間的なものです。――そして他の全て は協会にとってはグループです。それによって私たちは本当に自由に支えられた生命をア ントロポゾフィー協会に持ち込むのであり、発展しようとする至るところでまたひたすら 自立的な生命をうるのです。それ以外に私たちは先に進むことはありません。 《アントロポゾフィー協会はこの協会の使命と見なすものをここから会員または会員グ ループに伝えなければならない。》 私の親愛なる友人の皆さん、この命題は全く特別の重要性をもっています。何故なら、 その中に理事会がいかなるものと理解されるかが含まれているからです。理事会は選ばれ るものとは見なされません。理事会は私たちがここゲーテアヌムで何かを行おうとする。 そして私たちが行うあれこれについて、それを個人として又はグループとして行いたいと 思う人と交流し、この定款を認めこの定款を理解していると明言する、それぞれの個人又 はそれぞれのグループを会員として認める、と言う人間のグループと理解しています。 それによってこの理事会は最も自由な形で協会の中に置かれていることを明らかにしま す。つまり、アントロポゾフィーの事柄のために、イニティアティーフをもつ人間のグルー プとして以外ではありえません。そしてこのアントロポゾフィーの事柄に対するイニティ アティーフの表われは、この理事会の心臓の血液でなければならないでしょう。つまり理 事会は抽象的な人間の代表ではありません。ここゲーテアヌムにおけるアントロポゾ フィーの事柄の代表者です。理事会はここゲーテアヌムでアントロポゾフィーの事柄を代 表する課題をもっています。そしてこの理事会が認めようするある協会の会員であることを認めることは、正にアントロポゾフィーの事柄の促進に結びつくことです。未来におい て会員と理事会とは、その関係において全く普遍的人間的であり、全く自由に考えられて います。私たちはまだそれには至っておりません。私たちはそれを全世界の前に提示しな ければなりません。その時、決して選ばれたのでない恣意的理事会が自分自身の任命によっ て過去10年間存続した卑劣な一味のような判断はもはや登場しないでしょう。始めから 事実を鋭く強調し、アントロポゾフィー協会においては本来の選挙は不可能であり、そう ではなくてイニティアティーフだけがありうることが強調されなければなりません。つま りこの理事会とは、《理事会は各グループによって選ばれ、あるいは指名された役員と連 絡をとる。》 それがいかに生まれるかは個々のグループの定款の事柄です。私たちにとってここでは、 私たちが委ねる理由から信頼をもってこの役員と話合いたいと思うことがひたすら重要で す。 《各グループは会員の入会を助ける。ただしその入会の認証はドルナッハの理事会に提 出され、グループ役員に対する信頼の下で、理事によって署名される。一般に会員の誰も があるグループに入ることとする。ただしどのグループへの入会も全く不可能な人に限り、 ドルナッハで直接会員として受け入れられる。》

12、《会費は各グループによって決められる。ただし各グループは会員一人につき・・・を ゲーテアヌムの中央指導局に納入しなければならない。》 私はここで点を打ちました。私は既にそれについてのある考えをもち、それを場合によっ ては提案もしますが。しかし私はここでまず点を打ちました。それによってできるだけそ れについての幅広い熟慮が明日まで話合われるからです。何故なら私たちはここでもまた お金を必要とするからです。理想主義は、私はそれについて既にしばしば語りました、お 金のようにひどくひどくアーリマン的なものには理想を決して触れさせてはいけない。理 想はそれからできるだけ自由にしておくべきだ、と言うことの中にはありえません。左手 を財布に、右手を理想にかかげる!―理想を高く掲げるために、たとえわずかな犠牲でも 払うように、いつかは右手で左の財布への居心地よくない動きをしなければなりません。

13、《各活動グループはそれぞれ自らの規約を作成する。ただしそれがアントロポゾ フィー協会の規約に矛盾してはならない。》

14、《協会の機関誌は週刊“ゲーテアヌム”である。この目的のために協会の公的なお知ら せを載せた折込が用意されている。この拡張版はアントロポゾフィー協会の会員にのみ配 布される。》 これは私が行く至る所で、アントロポゾフィー協会で何が起っているかについて、全く 何も聞いていない、と判断能力のある会員が私に語ったことに出会った、という理由から 私には特別心にかかる一文です。――私たちはまさにこの機関誌によって慎重な報告を行 うでしょう。個々の人からの通信は益々多くなりうるでしょう。それによって人はアント ロポゾフィー協会の中にひたすら生きることができるようになるでしょう。》

クリスマス会議開会講演(7)

さて、親愛なる友人の皆さん、私が自らアントロポゾフィー協会の代表を引受けるとい う前提に皆さんが同意されることをよく考え、その目的と目標に達する場合、私はなお、 私が実際少なくともスケッチ風にここで皆さんに暗示した課題を果すことができる人であ る理事会を皆さんに提案しなければなりません。 理事会会員は、アントロポゾフィーの事柄の現実の、事実的な実施のために、ここドル ナッハにいる人でなければなりません。私が協会を考えると、理事は世界中の至る所に求 められることはありません。それは個々のグループがその役員を自主的に選ぶことを妨げ ないでしょう。そしてこの役員はここドルナッハに来て出席の間、その人は助言する会員 として理事会会議に受け入れられるでしょう。つまり事柄全体に生命が入ってきて、官僚 的に世界中に分散した理事会ではなく、個々のグループに責任をもつ役員がいて、その役 員がグループそのものから出てゆく、しかしドルナッハに置かれた理事会会員と同等の権 利をもつ会員として、充分に自分を感ずる機会をいつでももつ人です。仕事はしかし、ド ルナッハのこの理事会によって配慮されなければなりません。 さて理事会は自明の如く、その生活を外的にも内的にも余すところなくアントロポゾ フィーの事柄に献げた人でなければなりません。そして先週の長い熟慮の中から理事とし て以下の人物を皆さんに提案することをお許し下さい。 私が副理事長にアルベルト・シュテッフェン氏を皆さんに提案すると、何らかのかすか な矛盾も全く生ずることなく、すべての心に分け隔てなく、充分な賛同の声があがるだろ うと思います。(拍手喝采) それによって同時に理事会そのものの中に私が今日既に暗示したことが表現されていま す。つまりアントロポゾフィー協会としての私たちのスイスとの結びつきです。そして私 は皆さんの前で私の確信を決定的な言葉で語ります。それは私が皆さんに次のように言う ことによってです。ここのスイス人でアントロポゾフィー協会において、全力で理事会会 員として、また副理事長としてスイス人をもつことが問題になる時、よりよいスイス人を 見出すことはありません。 それから理事会の中にそのすべての初めからアントロポゾフィー協会と結ばれていて、 アントロポゾフィー協会の大部分を構築し、今日アントロポゾフィー協会の中でアントロ ポゾフィーのやり方で最も重要な領域の一つで作用している人物をもつことが問題になる でしょう。シュタイナー博士夫人です。(拍手喝采) 皆さんは全てを語りました。そしてそれによってはっきりと私たちの選択は何らかの形 でこの方向に向けて正しいものに出会わないだろうという恐れを何らもつ必要はないこと を表現しました。 更なる理事会会員として、私は皆さんに先週のここでの事実から、私が現在その人と共 にアントロポゾフィーの医学体系を創ることによってアントロポゾフィーの情熱を正しく吟味する可能性を正しくもつ人物を提案しなければなりません。イタ・ヴェーグマン博士 夫人です。(拍手喝采) 彼女はその仕事によって――そして特にその仕事の解釈によって――彼女がこの特殊領 域においてアントロポゾフィーを正しく際立たせることができることを示しました。そし て私はそれが恵みをもたらすように作用するであろうことを知っています。その時私は、 次の時代のために、医学のアントロポゾフィーのシステムを既にヴェーグマン博士夫人と 共同で創ることに着手しました。それは世界の眼前に現われることでしょう。そしてそれ から私たちは、正にこのような形で仕事をする会員にアントロポゾフィー協会の正しい友 人をもつことを理解するでしょう。 更に私は皆さんに一人の会員を提案しなければなりません。それは今や本当にドルナッ ハの仕事にとって大きなものとあらゆる詳細において、細かい点に至るまで吟味され、常 に忠実な会員として証明された会員です。理事会会員は実際、正しく選ばれています。―― 何ら自己説明であるべきではないと私は思いますが。アルベルト・シュテッフェンは生ま れる前から既にアントロポゾーフでした。人はそれを彼に認めるに違いありません。シュ タイナー博士夫人は勿論アントロポゾフィー協会がある間いつもアントロポゾーフィンで した。一番初めの時代、私たちの後から入ってきた一番最初の会員の一人がヴェーグマン 博士夫人です。彼女は20年以上アントロポゾフィー運動の会員です。彼女はこのホール の中で私たち自身を除けば最も古い会員です。同じように大変古い会員は、私が今思うと 本当に細かい点までここでの最も忠実な協働者として吟味され、皆さんが本当に細かい点 まで了解できる人物がいます。それがリリー・フレーデ博士です。(拍手) そして私たちは今やアントロポゾフィーの理事会の中にもう一人の人物が必要です。そ れは私たちが自分で全てを受入れることはできない多くの心配を取去ってくれる人物です。 何故ならイニティアティーフは分離されなければならないからです。――しかし全てを考 えなければならない一人の人物がいます。それは他者が(それはまた決して自己説明であっ てはならないのですが)アントロポゾフィーの事柄において少しでも照らされた頭部をも つように努力する時――しかしいわば頭をぶつけないで、まとめる一人を必要とします。 それは多くの関連において多くの他者のために先ず試される人物であり、その人はいかな る試練にも耐えるであろう、と私が思う人物です。それが私たちの親愛なるギュンター・ ヴァクスムート博士でしょう。彼は実際ここで私たちのためにしなければならないすべて において本当にその試みの総体を既に示したのであり、彼は極めて調和のとれた形で共働 できることを示しました。時と共に彼とは次第に満足できることでしょう。私はギュン ター・ヴァクスムート博士をも認めていただくことをお願いします。――彼は会計係では ありませんが、秘書と経理責任者として私たちの下でその役割を果すべき人です。(拍手)

理事会は小さくなければなりません。私の親愛なる友人の皆さん、それ故、リストもこ れで終わりです。そして午前中の私たちの時間も終わりです。私はなお、私たちが皆とり わけこの集会において気分、―ある気分を―、厳粛な気分をもつよう努力したいというお 願いを語ってもよいでしょう。この気分から、アントロポゾフィーの厳粛な気分から、私 たちが次の日々に必要とするものが生れてくるでしょう。そして私たちが次の日々のため にそれをもつなら、私たちはアントロポゾフィー協会のためにその中に入ってゆく未来の時代のためにもそれをもつでしょう。皆さんの心に私は訴えました。皆さんの英知のうち の、皆さんの心に燃え、情熱化されるものに訴えました。私たちはこの燃え上がり、この あたたかさを、この情熱を、続く集会を通して担おうではありませんか。それによって、 何か正に実りあるものを、この続く日々に行なおうではありませんか。

なお二つのお知らせをしなければなりません。今日の午後2回クリスマス劇、楽園劇の 上演があるでしょう。最初の上演は4時30分に行われ、――そこに入れない人は――今 日は皆が楽園劇を観ることができるでしょうが――6時にそれを観ることができるでしょ う。 私たちがもつ次の集会は夕方8時です。アントロポゾフィーの光に照らされた世界史に ついての私の最初の講義がそこで行われることでしょう。 明日の火曜日の10時に、私たちはアントロポゾフィー協会の定礎のためにここに集ま るでしょう。そしてアントロポゾフィー協会の設立集会がそれに続くでしょう。 そしてなお、今日の午後にお知らせした事務総長と代表者の集会は今日は行われないこ とをお知らせしなければなりません。何故なら、設立集会が既に行われてから行われる方 がより良いからです。その集会は明日2時 30分に下のグラスハウスの建築家事務所で行われるでしょう。つまり理事会、事務総長 とまたその秘書である人々の集会です。

Ⅳ 精神科学自由大学の諸部門/造形芸術部門

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.109-1

訳:石川恒夫

造形芸術部門
Sektion für Bildende Künste

ウルスラ・グルーバー
Ursula Gruber

「内的生命の表現としてフォルムを創造することこそ、私たちの理想でしょう。なぜなら、 フォルムを見ることのできない、見つつ創造することのできない時代において、精神は必 然的に本質のない抽象に消えていってしまうでしょうし、現実は精神の欠如した、材料の 集積という単なる抽象的な精神と対置されるでしょう。」ルドルフ・シュタイナー(1905年11月25日リーシュタイナーへの書簡)

ルドルフ・シュタイナーの芸術衝動

アントロポゾフィーの芸術衝動の根源は、ルドルフ・シュタイナーがゲーテに取り組んだ ということの内にあります。そこから生れた美学は、理念的―精神的なものの素材の世界 に対する関係を、その中で目に見えない形で作用している精神的なものに対して物質が透 過するようになるまで物質を変容する委託を芸術家に与えるものと定義しています。芸術 は「秘密の自然法則の啓示者」となるのです。そこから生じる委託、感覚世界を芸術によっ て精神化し、「神々の喉頭」となるような芸術的なフォルムを創造し、感覚知覚を越えた、 そしてその「感覚的―倫理的作用」(ゲーテ)を人間の魂によって仲介された人間と超感 覚的な存在たちとの出会いを可能にするエソテリックな委託を、ルドルフ・シュタイナー は1907年のミュンヘン会議のインテリア造形によってはじめて世に問うたのでした。そこ で全く根源的な芸術的なエレメントが展開され、それが第一ゲーテアヌムで花開いたので す。その建物は、ルドルフ・シュタイナーの神秘劇上演のために建設されました。ゲーテ アヌムにおいて、学問と芸術と宗教の総合への努力が新しい秘儀の文化の意味において目 に見えるようになったのです。建築は総合芸術作品として表現され、そこでは様々な造形 芸術が有機体の模範に従って、生きた統一体に織りあわされていました。特に内部空間と して構想された建築のフォルムのことばは、胡桃と胡桃の殻との関係として構想され、ア ントロポゾフィーの精神的本質に対する相応しい被いを形成するように表現されました。 その場合、個々のフォルムは、アレゴリーという理念的内容としてではなく、リアルな精 神的プロセスとして表現されたのであり、それは人間の魂の中で追創造しつつ、直接的な 超感覚的体験として経験可能なものでした。建築はこの意味において人間の教育者として作用すべきものでした。ルドルフ・シュタイナーの努力は、アントロポゾフィー運動の構 成要素として芸術を導く、一つの固有の様式を生み出すことに向かっていました。精神的 運動は、それが固有の芸術を生み出し、感覚世界を造形しつつ変容させることができると きのみ、その活気を世界に示すことができるでしょう。それはこの世界観の、現実におけ る目に見える証となるでしょう。 この比類なき芸術創造は1922年の大晦日に放火炎上してしまいました。同じ場所に、 まったく変容された建築として第二ゲーテアヌムが建っています。それは初期のコンクリー ト建築の一つとして、彫刻のように世界に開かれて立ち、周辺環境に向かい、その内的本 質を拒絶することなく、その形姿に受けとめています。このフォルムの言葉はいまや、時 代精神の要請を取上げ、これと関わり、世界中に作用する精神的運動を代表する委託に対 応するものです。この建築は、この意向に対する、目に見えるようになった意識の器官の ごとく、この運動の中心として現れています。この建築に関連する芸術には、その手法に よって感覚世界を造形し、人間がその内的発展において鼓舞され、支援されるように、そ してその中で精神的・魂的存在として発展していけるようにする課題が立てられています。
総括するとルドルフ・シュタイナーの芸術衝動は二重の仕方で示されます。エソテリッ クな深化として内側へ向かう道と、精神による世界の変容として外に向かう道です。それ とともに人間の謎への問い、超感覚的な存在への問い、芸術によって世界を変容する啓示 への問いが結びつきます。 ルドルフ・シュタイナーは1923年のクリスマス会議における造形芸術部門を以下の言葉 で始めました。「皆さんが古いゲーテアヌムのことを思い起こすならば、皆さんはここで 造形芸術も大きな役割を演じたことを見出すでしょう。それは未来においてもそうでなけ ればならないでしょう。それゆえ私たちは造形芸術部門を必要とするのです。」ルドルフ・ シュタイナーは部門代表を、重い病気であったがゆえに当日出席していなかったイギリス 人彫刻家エディス・マリオン女史に委ねました。彼女の芸術的、エソテリックな能力を、 彼女の協働への意志とともに高く評価していたからです。彼女はしかし四ヶ月後に亡くな りました。1957年まで部門代表は不在でしたが、彫刻と絵画の領域ではゲーテアヌムに固 有の学校がありました。部門の歴史は大変変化に富んだ、強烈な個々の個性と芸術的な潮 流の対決によって刻印されています。それらを束ねる一つの試みは1990年代にはじめて、 ゲーテアヌムの大ホールの新たな造形との関係において、クリスチアン・ヒッチのもとで 為されたのです。

時代の兆候と時代の要請:敷居の芸術

アントロポゾフィーの芸術衝動の広がりは、あらゆる生活領域における極端な二極化の状 況の中に立っています。感覚以下の世界と、それに奉仕する技術と結びつきをもちつつ、 人間は一方では精神に敵対する物質主義に忠実であり、他方ではあらゆるリアルな地球の 困窮から解放された見かけの世界に熱中し、「自由に気の向くままに」際立った主知主義 を満足させています。現代文化においては、芸術の極みとして、地上の素材をもはや必要としない仮想空間におけるサイバー芸術か、グンター・フォン・ハーゲンスの屍の芸術の ような、死んだ物質を用いた変容しようのないプレゼンテーションとして現れています。 この二極化のなかで、僅かながらバランスをとろうとする関心が存在しています。ます ます増大する商業化によって、そして増加する信望の喪失によって、人間がその魂の領域 において、純粋に人間的なもの、彼の自由の中心を謳歌しうる、空間の展開が芸術からま すます奪われています。このことは、芸術的なものを人間的な諸関係から追い出し、現実 の社会的な重要性を否定する傾向にはっきりみてとれます。 私たちが創造的な人間精神として動けるような健全な自然の大地は沼地になってしまい、 もはや支えの機能を失ってしまいました。未来の芸術の使命は、死にゆく自然の「代替」 を形成し、人間に新しい大地を作り出すために、エーテル的なものの世界へ進むことによっ て生命力を付与することにあります。そこで人間は自らの未来の存在に即して更に発展し ていけるように。こうしてアントロポゾフィーの芸術家は、新しい形態言語へ向かったの であり、その基礎はこの領域に見られるのです。 特に建築において、この状況は特にはっきり感じ取れるでしょう。そこに作用する委託 は、技術的な発展によって、およそ全てのものをやりたいように建築できるという、形式 的な抑制の解消を示す世界中の展開にみられます。この変化は、有機的・生動的な建築の 精神的な意図と基盤のより深い理解を求めています。今日の空間と建築形態の生動化と破 局化は、同時代の人間の欲求に関して、超感覚的な体験と境を接し、あるいはそれを想起 させるより強固な体験への問いをたてるものです。 類似のプロセスは、彫刻芸術にみられる完全なる人体形姿の消失にも表れています。そ こにあるのはちりじりになった形象であり、崩壊のプロセスであり、情動的な内容の仲介 だけです。彫刻の自己理解の喪失と、それとともに文化的な意味の喪失は、環境芸術やオ ブジェとしての芸術、インタレーションなどの新しい芸術形式の広がりによって被われて しまいました。ルドルフ・シュタイナーによる「人類の典型」のような木彫における、エー テル的なものの合法則性に基づいた、人体形姿の新たなる創造は、まだ確信できるまでに 成功したわけではありません。新しい人間像に目に見えるフォルムを与えることは、時代 の要請のように思えます。過去数年、人間への明確な方向付けが世界的に感じられますが、 それは本質的に人間的な生活基盤の危険を知覚することと関わるものです。生活を支える 価値への問いは、そして自然の癒しの諸力への問い、そしてそれとともに無常なるものに おける破壊しえないものへの問いは、人間への眼差しとともにまったく新しいものです。 精神世界は引き寄せられ、現在的となり、敷居はとうに越えられ、この領域への洞察は 珍しいことではありません。それに応じて、適切な表現形式への憧れ、内的に体験された ものの認知と意識化への憧れが育ってきています。そこに隠されたかたちで、真の自己認 識への叫び、芸術的な出会いへの訴えが響いており、それによって芸術作品において啓示 されるものと親和しつつ自己を体験するなかで、人間は最も固有の本質と触れるのです。 それは自我を覚醒させる芸術への要請であり、感覚世界と超感覚的世界との橋渡しをする 「敷居の芸術」です。それは未来の秘儀文化の中でその課題を満たすことができるものです。

部門の仕事:精神的-芸術的な力を求めて

今日、造形芸術家は世界のいたるところ、個々のアトリエ制作について、アントロポゾフィー運動のなかでも、そして公開性のなかで、多様なあり方で仕事をしています。その仕事の成果は、建築、インテリア、ランドスケープ、家具、デザイン、彫刻、ガラス工芸、自由な絵画、壁画、装飾、宝石細工、織物、被覆芸術、グラフィックなどの芸術的な生活造形の多様な領域に流れ込んでいます。当初からアントロポゾフィーの芸術展開は、強固なる方法論の意識化が特徴的であり、それが様々なスクールの形成に至り、今日まで造形芸術部門の生命に多種多様な色合いを刻印しています。ルドルフ・シュタイナーの芸術衝動から100年、今や、その精神的な本質に配慮すること、そして同時に、まったく変わってしまった時代状況に結びつくことが課題となっています。伝統をとおして仲介される手がかりはもはや充分な形では体験されていません。いかにして私は今日、アントロポゾフィーの芸術衝動の代表者たりえるのでしょうか。内的な強化と、研究による深化の傾向は読み取れます。敷居(境界)への足取りは、直接的な要請として表れています。その場合一人一人が意識的な体験によってこのことを現在化し、体験を経て世界が実り豊かになるような道筋を発見していかなければならないような感覚が生きています。信頼性への問い、個々人の芸術的な精神探求による内的確信への問いがそれによって立てられます。この認識への努力は、個人的なものから上位の精神的な関係へと高められるために、時代精神の探求と結びつかなければなりません。この状況から、精神的な共同体形成への必然性が大きくなります。この意味において、過去数年、作業領域と問題設定の洗練のために、世界のいたるところで自己責任的な部門グループが形成され、また建築家のネットワーク[人間と建築の国際フォーラムIFMA]が形成されました。加えて公的機関(キエフ大学、オデッサ大学、ティフリスの芸術アカデミー、ハイデラバードやボンベイの建築学校など)での展覧会、講演会、講義活動が挙げられます。部門はルドルフ・シュタイナーの芸術衝動のための研究年や作業週間を提供しており、また専門家会議や、固有の芸術に関わる問題提起を個人研究の形式をとって追及する可能性をつくりだしています。世界のいたるところ、部門と結ばれた芸術学校、深化と専門化のための可能性が存在しています。ゲーテアヌムに固有の育成機関がつくられること、そして専門領域に特徴的な工房、アトリエが営まれ、そこでルドルフ・シュタイナーの示唆が日々探求され、目に見えるようになることが望まれます。

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S. 109-1
翻訳:石川 恒夫

Ⅳ 精神科学自由大学の諸部門/社会科学部門

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.103-108

訳:石川恒夫

社会科学部門
Sektion für Sozialwissenschaften

パウル・マッカイ
Paul Mackay

研究領域と認識方法

ゲーテアヌム・社会科学部門の活動領域は、人間相互の関係の領域として記述されうる でしょう。これらの諸関係が探求され、形成されます。その場合、社会生活の三つの領域 が区別されます。
能力をもった存在としての人間が効力を発揮する精神生活。社会生活のこの部分において 行為の領域を見出す学問は、なかでも社会学、民俗学あるいは文化人類学、社会教育学、 社会心理学、社会倫理学です。精神生活は個々の人間から出発しますが、人間と人間との 間の関係の広がりに向かいます。それぞれの社会形象は、家族の中の家族文化、あるいは 企業の中の企業文化のように、それぞれに相応しい文化をもっています。 成人としての人間が活動するところの法的生活。この領域において、その活動の場を見出 す学問としては、主にして法学、政治学です。法生活は地上の諸関係の秩序に関わってお り、人間と人間の諸関係に関わるものです。 何かを欲求する存在としての人間が出現する経済生活。この領域においてその活動の場を 見出す学問としては、経済学、国民経済学、企業経済学です。ここでは他者のために行為 することが問題となります。
社会科学の方法は特殊です。なぜなら、社会生活は静的なものではなくて動的なものだ からです。それは理論的な側面と実践的な側面をあわせもち、つまり、何であるか(認識)ということと、どういう作用が及ぶのか(行為)ということと関わるということです。探 求と造形がそれによって一つの関係に合流し、社会的な現実を特徴づけていきます。認識 要因と形成要因をそれぞれ研究に導くことによって、この社会科学は、社会的・芸術的意 味を求めるのです。

倫理的質の強化―そして社会能力

精神科学自由大学においては特に、社会科学の秘教的(エソテリック)な基盤を求めるこ とが重要となります。同時に倫理的な質の強化と、それとともに社会能力が実現されない ならば、より高次な認識方法(イマジネーション《映像》、インスピレーション《霊感》、 イントゥイッション《直観》)が獲得されえないということが意味をもちます。この点に 関してルドルフ・シュタイナーは以下の関係について言及しています。「人間の倫理的生 活の形成は、彼の倫理的洞察に、他者に対する倫理的理解に、そして倫理的力に係ってい る。イマギナティーフな直観は、倫理的な洞察の基盤の上に、インスピレーション(霊感) に対する受容性は倫理的理解における行によってのみ、そしてイントゥイッション(直観) は倫理的力の擁護によってのみ発展されうるものである。それゆえ、伝えられたイマジネー ションは、それを受けとめる人にあって、倫理的洞察への関心を、インスピレーションは 倫理的理解への関心を、イントゥイッション(直観)は倫理的力の解放への関心をそれぞ れ引き起こすことに至るのである。」 社会科学においては、人間の諸関係の領域が問題になるがゆえに、この領域の探求と形 成においては、協働作業も重要な役割を演じます。ルドルフ・シュタイナーは宇宙的叡智 を「より高次なヒエラルヒアの相互の行動ルールである」と特徴づけています。互いに振 る舞い、互いに存在しあうように行為すること、それが宇宙的叡智である、と。社会科学 においてはまた、新たに生じる人間同士の諸関係によって、「新しい」叡智、普遍的・人 間的叡智が生じうることも大切です。その叡智とは個々の叡智の総和以上のものであり、 精神界との関係にあるものです。

社会的、カルマ的現実における自我

同時に現代の社会科学においては、一種の自我の神秘に向かっていくことも大切です。私 たちは意識魂の時代に生きています。これは人間がおのずと反―社会的な欲求(衝動)を 発展させることを生じさせます。この衝動は強化された他者への関心によって、そして適 切な社会形成によって調和を取るようにしなければなりません。1918年12月12日の講演 (GA186)においてルドルフ・シュタイナーは二つの行(練習)を示唆しています。
―自分と他者との間に何が生じたかという問いをもって、ときどき自分の人生を省みること。そして、時の流れのなかで影響を及ぼした他者の鏡の中に自己を見出すことを試み ること。それによって他者を映像的に(イマギナティーフに)自らのうちに復活させる可 能性が生じる。
―自分自身絶えずより客観的になるように試みること、自分自身を異質な存在としてイメージすること。それによって人間は自身の過去から解放されて、自分自身についてのイマジ ネーションを獲得する。
イマギナティーフな(映像的な)認識能力が発展するようなこの二つの行に基づいて、彼 のカルマ的な、それによって社会的な現実の中で固有の自我を見る可能性が生まれてきます。 最終的に、私たちがただ意識魂の時代に生きているのみならず、1879年に始まりおよそ350年続くといわれる ミヒャエルの時代にも生きているのだ、ということを現前化することも大切です。それは 意識魂の時代における自由の時代でもあります。まさに社会的諸関係は、この自由な意志 から形成されるべきものです。ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』の言葉では、次 のように表現されています。「行為への愛からの形成が可能である。」この自由な意志は、 さらなる人類の発展のための基礎です。そこにこそ部門活動の中心に存在し、部門におい て多様な形で営まれる社会問題の核心があります。

部門の歴史

ルドルフ・シュタイナーはもともとこの部門を1923年のクリスマス会議の際に立ち上げ るつもりでした。彼はギュンター・ヴァクスムートに部門代表を委ねるつもりだったので すが、ヴァクスムート氏がすでに自然科学部門の代表を引受けていたこともあり、さらに もう一つの部門を率いることは不可能だったのです。こうしてゲーテアヌム理事会は1961年にはじめて、クルト・フランツ・ダヴィッドを部門代表に据え、1963年から70年まで は、理事のヘルベルト・ヴィッツェンマンが部門を率い、1975年3月にマンフレッド・ シュミット=ブラバントが理事に招聘され、同時に社会科学部門が代表を引受けることに なりました。この課題は2000年11月まで、主体的なあり方で実現されていきました。2000年11月からパウル・マッカイが部門代表を引受け、「社会学のための部門」へ活動を広げ ていっています。

生活領域と時代現象との関係

ルドルフ・シュタイナーは生涯の間、社会的なイデーを段階的に展開していきました。こ の「社会学的な基本法則」において、シュタイナーは、あらゆる社会的諸現象を、自ら個 体として発展していく人間の観点のもとに考察しなければならないという基本モチーフを 示唆しました。「社会的主要法則」において、シュタイナーは、現代社会において個々の 人間は自分自身のために働くことはできず、むしろ分業する経済をとおして、誰もが他者 の助力を必要すること、そしていつも一者が他者のために、組合のために仕事をするとい うことを対極的に補っています。 これらの諸法則の形態をルドルフ・シュタイナーは、第一次大戦後、社会有機体の三分 節構造において具現化していきました。社会をきめ細かに見ていくことによって、フラン ス革命の人間的要請の実現に到るのです。つまり精神生活における自由、法生活における 平等、経済生活における友愛。南ドイツの地域においては、激しい尽力によって急速に国 民教育の運動が生れました。不足する支援と反対勢力の抵抗もあって、ルドルフ・シュタ イナーは、彼のイデーを具体的な活動の形成のための基礎として捉える可能性を得、例えばそれ自身が自治管理する学校形態としての「ヴァルドルフ学校」が、また連合的な経済 方式のための「来るべき日」が始まりました。経済学講座において、シュタイナーはつい には新しい経済学のための基礎を築いたのです。 数十年後この衝動は多様な形で展開していきました。その衝動はアントロポゾフィーの 様々な生活領域において多様な表現を見るに至りました。例えば農業経営において、病院 において、ヴァルドルフ学校において、銀行経営において、弁護士実務において、顧問活 動においてなどです。このようなイニシアチブが、意識的にアントロポゾフィーから生ま れ、ルドルフ・シュタイナーの社会衝動の実現のために仕事をする限り、それらは社会科 学部門との関係を持つものです。ちょうど直接民主主義や、無条件の基本収入のためのイ ニシアチブのように、直接社会的出来事と関わる様々な衝動も、この意味において観察さ れうることでしょう。

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S. 103-108
翻訳:石川 恒夫

Ⅳ 精神科学自由大学の諸部門/青年部門

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.96-102

訳:石川恒夫

青年部門
Jugendsektion

エリザベス・ヴィルシンク
Elizabeth Wirsching

ルドルフ・シュタイナーの切実なる願いとは、若人をアントロポゾフィー協会へ導くこ とでした。世代を超えて互いに理解しあえるような、若人との意味ある出会いは、時代に ふさわしい仕事をするのみならず、未来の衝動から霊感を得ることを可能にするものです。 ルドルフ・シュタイナーがこの観点において、いかに心をこめて若者に語りかけたか、『教 育的青年講座』からの以下の一文が示しています。
「私はこのように考えています。すなわち私がこれから数日の間に皆さんに語るであろ うことの多くが、皆さんにとって多かれ少なかれ強烈に、内なる魂の体験の一種の解釈と なるにちがいないということです。そして、皆さんがそれによって真の魂の明解さ、―単 なる概念的なものとの対比において魂的なものの明解さ―に到ることが期待されているの です。」
会員通信において、ルドルフ・シュタイナーは記しています。「若者たちは一つのトー ン(口調)のなかで語っていますが、その響きの色合いは、人類の発展において新しいも のです。人は、魂の眼差しが以前の時代から受け継がれ、現代において増殖されうるもの の継続に向けられていないことを感じています。これは時代が発展するのではなく、永遠 が開示する領域からの、生活への新たなる流入です。」
青年部門は1924年の復活祭に、「青年の精神の探求のための部門」としてアントロポゾ フィー協会の総会のさいに設立されました。教師であり古文献学者であるマリア・レッシェル(後のマリア・レッシェル―レールス)がルドルフ・シュタイナーによって指名された 最初の部門代表でした。
精神科学自由大学の枠組みにおいて、青年部門は一つの専門的な部門としてではなく、 むしろ「普遍的な」部門以上に、青年の問いに対して、専門の部門がもたらす人生や研究 についての様々な問いをアントロポゾフィーの基盤に基づいてさらに展開することができ る固有の分野として理解されるべきでしょう。「(青年部門)は『プログラム』を公表す ることはないでしょう。この部門は『若者の本質』についての解明を与えることはないで しょう。この部門は、その設立者自身が今日の若人の欠点に対して体験することができる ものに献身することを試みるでしょう。これは人生において日々新たに展開することので きる『若者の叡智』を与えるでしょう。」
マリア・レッシェルとルドルフ・シュタイナーが『私の中の第二の人間への求め』とし て記述したことを、人は今日『固有のアイデンティティーへの求め』と呼ぶことができま す。それは次の基本感情に基づくものです。「私は、私自身よりも大きい何かを私の中に 担っている。私自身よりも大きいこのものを、私は発展させたい。」アイデンティティー とイニシアチブとの関係は、ここで明白でしょう。そして固有のイニシアチブの力が、固 有の自我を彫塑するためにいかに大切かという示唆が与えられるでしょう。問いはつまり こうです:自分自身を動かすために、何をすることができるでしょうか。それぞれの行為 は、固有の自己が豊かになることを意味するべきであり、逆に言えば、固有の発展におけ るそれぞれの一歩は、世界の役に立つのです。それぞれ成長する世代が文化全体の存在を 反映するように、外的責務と内的成熟の交差は、それぞれの年齢にとって意味あることな のです。 同じことを、青年部門の協働者であるユリアナ・ヘップは記しています。「私たちは皆、 世界の運命が、私たちの固有の運命と分かちがたく結ばれていることを感じています。グ ローバリゼーションのプロセスの造形は、私たちに固有に生れるアイデンティティーその ものです。」 若き教師ハイコ・シャーフは彼の論稿『深淵を耐える勇気』の中で記しています。「新 しい岸辺への思索的な掘り起こしこそ、意識の仕事である。私たちは皆、今日多くの問い がもたらされるが、私たちの今までの経験からすぐさま答えを導き出せないことを知って いる。それにも関わらず試みる人は、彼がさらに歩いていけるような
新しい道を見出すまで、古い思考が導く深淵を充分に耐えるまでの充分な勇気をたいてい 持っていない。」 この指示のもとに人生は新しい現実を形成します。この上述したレアリティー(現実) の発見は、若人をアントロポゾフィーとの出会いに導きます。青年部門は、この出会いに 一つの場を与えるために、そしてそれを真摯に受けとめるために、そしてそれによってさ らなる発見が可能になるためにそこにあります。その発見は人生にとっての支えとなりうるものです。

仕事の方法:アントロポゾフィーによる道の求め

青年部門のテーマは、今日の人間と時代のテーマを反映しています。固有の道、そして内 的発展を可能にする諸空間を求める闘いは、若者の基本衝動でしょう。仕事の方法と重点 は、時代と共に変わりますが、基本的なポイントは保持されるものです。ここでは、精神 的に開かれた若人の自然な発展に対応する三つの時代領域を区別してみましょう。
模索(14-19歳)世界と自己自身についての存在の理解への問いが目覚めるこの年齢段階においては、内なる理想主義と人生の実践との間の真の結びつきをつくりだせることのできる人格者をとおして、世界への前向きな模索を得ることがとりわけ大切です。ここではアントロポゾ フィーが、そのようなものとしての中心にあるのではなく、自分自身を世界の発展と結び つける生活と誘発が中心にあります。この領域のための催しは、アントロポゾフィーと関 わる人間によって準備され実現されます。事例として私は隔年にゲーテアヌムで開催され る「コネクト(結びつき)・会議」を挙げることができるでしょう。ポイントは、意味豊 かな事柄を人生と世界に貢献するために、どのような精神的、社会的、実践的能力を今日 の人間は必要としているのか、ということです。個々の職業領域に関する多種多様な作業 グループが、最初のきっかけを与えます。
他の事例として、「IDEM」プロジェクトがあります。これは「イニシアチブによるアイ デンティティー」-社会的な関心をもった若人の世界的なネットワークです。アイデンティ ティーの発展との関係において、現代の多くの若人は、自由意志からのプロジェクトに具 体的に助け手として協働したいと望んでいます。社会的、文化的な体験をとおして、アイ デンティティーは育成されるのであり、外的諸体験が内的能力に変容されるのです。これ はまた同時に始まりであり、大人による支えが大きな価値をもっています。趣旨:「私という存在は世界のために重要であり、何か貢献しなければならない!」
発展(学業の終りに向かう、19-25歳)この段階においては、最初の模索への必要は過ぎ去り、若人は関心を寄せることのでき る個々の専門的なテーマを捜し求めています。しばしばそのテーマは直接アントロポゾ フィーと取り組むものでもあります。問われるのは修業の道の視点であり、その理解と深 化です。意見交換への望みは重要であり、この領域での体験をもった人々との出会いも大 切です。アントロポゾフィーは開かれた世界規模の運動であり、世界において意味ある場 を占めているという感情は、この年齢段階において大きな意味をもっています。アントロ ポゾフィーを理解することに努め、その中で自分自身を自由と感じたいと願います。 以下の事例が挙げられます。毎夏、青年部門はアントロポゾフィーの諸視点のための会 議を企画しています。加えて様々なテーマをもった週末セミナーがあり、またルドルフ・ シュタイナーの様々なテーマ、講演や文献の勉強会があります。これらの会議では、意志 の問題や固有の内的導きへの問い、あるいはシュタイナーによって与えられた行への問い に対する講演がしばしばもたれています。趣旨:「魂や世界を吹きわたる新鮮な風のように、アントロポゾフィーを感ずるべきで ある。」
深化(25-35歳、そしてそれ以降)今や本当にアントロポゾフィーと向き合い学ぶ欲求が存在しています。その問いの中心 にあるのは「アントロポゾフィーとは何か?」ではなく、「私は日々の体験をいかに深化 することができるか、私はいかに精神の学徒となるか?」です。こうしてアントロポゾ フィーと結ばれていると感じることで、アントロポゾフィーの運動と協会の発展は、大な り小なり関心あるテーマであるのみならず、それに対して責任の感情を抱くにいたるので す。
この若人のために、青年部門は一年に二つの出会いの場をゲーテアヌムで開催していま す。冬に「ゲーテアヌム2月会議」がありますが、これは学問と精神性、自我の意味、境 界の体験、瞑想的思考といったようなテーマによる、若人のための会議です。全ての部門 代表とゲーテアヌムの理事が参加し、講演を行い、若人の作業部会をリードします。夜に は学生主体により、理事や大学指導部とともにアントロポゾフィーや精神科学自由大学に ついての公開討論が開かれます。 また5月には青年部門の枠内において、自由大学の第一クラスの若い会員のための週末 会議があります。個々の瞑想の実践に対する問い、マントラの学びやミヒャエル・シュー レへの問いが立てられます。毎回特定のクラッセン・シュトゥンデの時間がテーマの中心 にあります。実り豊かな学びの方法が展開されます。即ち私たちはクラッセン・シュトゥ ンデ自身の内容をまずはとらえ、その後クラッセン・シュトゥンデから生じるいくつかの 準備されたテーマに向かいます。私たちはまた、深化のプロセスで作業するように、互い に記述することも試みます。つまり私たちが容易に理解したこと、理解に困難を覚えたと ころ、私たちが発見したことなどです。趣旨:「アントロポゾフィーから私は世界の必要に奉仕することができる。」

展望

青年部門は始められた仕事を、関心をもった人々との、常に成長する、世界的なネット ワークとの協働において、更に発展させたいのです。そのために問いが生じます:部門は 現代の文化生活において、その具体的な提案をいかにより視覚化できるのでしょうか。そ の点についての第一の答えは、2008年秋にスウェーデン・イエルナで開始した、18歳から25歳までの若人のための新しいオリエンテーション年です。それは「YIP(Youth Initiative Programme)青年イニシアチブ・プログラム」です。そのライトモチーフは「明日の世界を 今日のイマジネーションからつくりだす」です。 この国際的な青年のイニシアチブ・プログラムは、アントロポゾフィーによって霊感を 与えられた、社会形成における事業家のための育成です。それは、私たちの社会の新しい 形成に創造的に関与する道を探し求める若人に向けられています。このプログラムの目標 は、若人の能力と知識を羽ばたかせることにあり、それによって彼らが社会的な問題を認 識し、彼らのイニシアチブを社会形成に導入し、それを組織化し、それを管理する事業家 精神の諸原理に応用することができるようにすることです。 人生を肯定するアントロポゾフィーへの問いは、様々な養成機関においてますます増え ており、変化と凝縮化を求める声を耳にします。アントロポゾフィー協会にとってこの発 展は、若人、そして彼らの意図との結びつきの視点にとって大変重要です。1924年にルド ルフ・シュタイナーはこの関係を以下のように表現しました。「精神の体験を真摯に探し 求めるところで、若人は年齢を重ねた人々と集まる領域を再び見出す。もし若人に対して 『若く』なければならない、と言うとすれば、それは内実のないフレーズである。否、若 人のもとでは年を重ねた人間として、正しいあり方で『年取って』いることを理解しなけ ればならない。」

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S. 96-102
参考
URL [e-news], www.youthsection.org

翻訳:石川 恒夫

Ⅳ 精神科学自由大学の諸部門/美学部門

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.83-88

訳:石川恒夫

美学部門
Sektion für Schöne Wissenschaften

マルティナ・マリア サム
Martina Maria Sam

学問と芸術との架け橋

ルドルフ・シュタイナーが1923年12月28日に精神科学自由大学を設立したとき、シュタイ ナーは個々の専門<領域>が輪となって結ばれるように、美学部門を開設しました。その

時シュタイナーは次のような言葉を添えて、また彼が見込んだ部門責任者の推薦、紹介を したのです。シュタイナーは語ります。「一般にフランスで”belles-lettres”(美しい文学) と呼ばれている領域に対しては、ドイツではSchöne Wissenschaften(美しい学問=美学) と表現されます。(中略)ここにその部門をつくることは許されるでしょうし、つくらな ければなりません。」それは、「人間の認識の中に、美と美学と芸術的なもの」をもたら したものだ、と彼は述べました。シュタイナーはクリスマス会議の一ヶ月後に「お知らせ(Nachrichtenblatt)」として発刊した、自由大学設立の報告書の中で、この部門の特性に ついて語っています。「かつては『美しい学問=美学』というイメージがありました。そ れは本来の学問・科学と、人間の創造的なファンタジーがもたらす芸術作品との間に橋を 架けるものだったのです。」 ルドルフ・シュタイナーにはしかし当時すでにはっきりしていました。この領域は今日 の文化ではもはや意識的に育まれてはおらず、それゆえ、その名称にいたるまで、部門の 課題についてのはっきりしたイメージをもつことができないことが。「近代が『学問・科 学』について育んだ視点は、『美しい学問=美学』を完全に背後に、―後に確認するよう に、「文明の災い」にまで―追いやってしまった。」
その後80年が経過しましたが、このことが改善されたわけではありません。つまり、19世紀初頭に「美しい学問=文芸」―アカデミーの領域における文学、言語学、美術史、音 楽学、演劇学、歴史学、文化史、メルヘン学、神話学など―を切り離していたいわゆる「精 神科学」は、学問及び、芸術・認識・造形との間に橋をかけるという根源的な委託からま すます離れてゆきました。
「精神」は一つの抽象ではなく、前の理由からリアルな存在として考えられるべきであ るという、アントロポゾフィーの精神科学の前提のもとに、全く異なる認識の眼差しが生 じてきます。精神が人類の芸術的、文化的な成果において明るみにだされるところで、精 神はその啓示の形態からそらされるのではなく、抽象化されるのではなく、むしろその具体的な現われを真摯にうけとめつつ、それが表現される現象のイメージにおいて体験され るべきであるということです。
ルドルフ・シュタイナーが例えば1923年6月9日の講演の中で用いた意味で、「美しい」 という概念を理解するならば、つまり「美しいものは、その内面が表面に現われるもので ある。」とすれば、美しい学問=文芸は、認識の領域において、認識されるべきものの本 質を、その現象のしぐさやあり方において解明しようと努める学問にほかなりません。 このような認識の体験の中で、認識の主体と認識の対象との間の分裂はもはや維持する ことはできません。認識する人は、芸術家がいつもするように、個的に造形するあり方の 中で、認識のプロセスの中へ自らをもちこまなければなりません。しかしそれは、自ら本 質的に啓示するものから出発するのであり、恣意的なものではないということです。

詩作、随筆、研究の協働のための契機

最初の部門代表であるアルベルト・シュテフェン(Albert Steffen)以来、美学部門と結ばれ ていると感ずる多くの個性が、この意味で仕事をしてきました。ルドルフ・シュタイナー が「素晴らしい「美しい学問」の代表者」と評価したアルベルト・シュテフェンは、彼の 詩作、随筆活動において、「アントロポゾフィーによって鼓舞され、深められた固有の認 識の作業を、芸術的な形式によって、読者に「美学」として手に届くものにする努力を怠 りませんでした。フリードリヒ・ヒーベル(Friedrich Hiebel)は、この作業を継続し、たえず 「美しい学問の」意味において形作ることを捜し求めた彼自身の作品のほかに、会議や研 究する協働のためのきっかけをつくり、意識的に美学の領域を拡大することを行いました。 ハーゲン・ビーザンツ(Hagen Biesantz)は、彼の代表の時代に、特に、芸術史的な領域での仕事に集中しました。1987年から1991年までは四人の共同運営により、マンフレッド・ク リューガー(Manfred Krüger)は狭義の意味で、美学に対して責任を担い、ハインツ・ツィン マーマン(Heinz Zimmermann)は言語学に対して、カール-マルティン・ディーツ(Karl-Martin Dietz)は文化史に対して、そしてミヒャエル・ボッケミュール(Michael Bockemühl)は芸術史 と美学に対して、それぞれ責任を担いました。 ハーゲン・ビーザンツが1991年から死去する1996年まで再び部門代表についたのち、1997年にまず暫定的なコレギウムが形成され、1999年末に、マルティナ マリア サムが 部門代表として招聘されました。
過去7年の部門の重点課題は以下のとおりです。
1 世界における部門活動を広く知覚し、擁護し、発信すること(目下、アルゼンチン、 オーストラリア、ブラジル、ドイツ、フランス語圏の国々、イギリス、日本、ニュー ジーランド、オランダ、北アメリカ、スイスに部門のグループ、イニシアチブが形成さ れている。)
2 公開の会議の企画、特に文化史的な領域における(公教育的な推進の育成として) 3 専門者向け会議の企画(様々な領域で仕事し、研究する人々のために。できる限り他 部門と協働する。) 4 様々なテーマに対する研究グループの形成、特に普遍的精神科学的な問題、美学の専門的方法の問題、様式論、ルドルフ・シュタイナーの言語、マントラについて 5 出版(年誌、会議レポート、回覧誌、企画カレンダーなど)

研究の集約

全ての部門活動の中心は、様々に異なる現象形式と時代における言語とともに、仕事を形 成しています。詩作において、ジャーナリズムにおいて、専門テキストにおいて、マント ラにおいて。アントロポゾフィー的な内容が今日、言葉としていかに表現されるべきか、 という問いが立てられている現代において、つまりルドルフ・シュタイナーを現代ドイツ 語に「移行」しなければならないのか、そもそもマントラの内容を他の言語にいかに翻訳 しうるのか、若人が言語に対する意識的な関わりをいかに発展させることができるのかな ど、言葉の意識の恒常的な育成を形成し、特にルドルフ・シュタイナーの独特な言葉の言 い回しに対する理解を絶えず育むことこそ、部門活動の本質的な基盤です。 それ以外に、美学部門においては常に方法論的な問題に取り組んでいます。イマギナティ ブな認識の基盤や、映像の概念についてです。 未来への抱負としては、固有の研究機関の設立であり、そこではそれぞれの専門領域が、 同時代的な学問の知覚を、専門的な原理の研究と結び付ける個人によって代表されるでしょ う。様々な領域の協働は、精神科学的な方法論の問題に対して集約した仕事を可能とする でしょう。それによってまた、他の部門や研究機関との協働も強化されるでしょう。それ は目下のところ、手が回らないため散発的に生じているだけなのです。

1】なお英語ではLiterary Arts and Humanities Sectionと表記されている。

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S. 83-88
翻訳:石川 恒夫

Ⅳ 精神科学自由大学の諸部門/農業部門

出典:Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.89-95

訳:石川恒夫

農業部門
Sektion für Landwirtschaft

ニコライ・フックス
Nikolai Fuchs

生命の農業 生物学的-力動的

1924年に開かれたルドルフ・シュタイナーによる「農業講座」のなかで基礎付けられたも のを包括する「農業」の概念を捜し求めるならば、「生命の農業」という概念が提示され るだろう。「生物学的」もしくは「生物学的-力動的」農業は、「生命」との関係を示す ものではあるが、それに対して、因習的な-化学的・技術的に向かう-農業は、狭義の意 味において「非生物学的」というわけではない。しかし同時に、今日「ビオ(バイオ)」 の概念は、自然成長資源の産業(バイオ・ディーゼル)と同様に、ライフ・サイエンス産 業(遺伝子操作産業)によっても「バイオ・テクノロジー」として用いられている。「エ コロジカル」な農業という概念は、今日、多かれ少なかれ、素材とエネルギーの流れを支 える循環経済の意味合いだけをもっている。それに対して、「生命(の)農業」の概念は、 断固として、農業が生命/いのちと包括的な意味において関わることに注意をはらうもの である。それは因習的な農業においてもっぱら行われている機械的・産業的なアプローチ を減らしていくことを目に見えるようにすることである。生命は、その現実と関わるため に、少なくとも有機物の手がかりに従って呼び起こされる。
農業を有機体とみなすことは、「農業講座」における原モチーフである。ここでは、農 業が一種の「個体」として、つまり自己完結した個性として取上げられうるとき、農業の 本質を最もよく正当に評価していると語られる。この視点に発展、意識、恐らくは自己規 定、あるいは自律性といった更なる生活の次元が結びつく。それらは明白に自己のエソテ リックなレベルへの問いを自らの内に担うものである。「生命」は、アントロポゾフィー 的な質をもつ農業のための鍵となる次元であり、この農業は霊的な生活を深く理解しよう とするために呼びかけると理解される。それをアントロポゾフィーが提供するように。恐 らく、ヨーロッパの農業政策は、多機能的な農業について語る時、むしろそのような次元 を探し求めているのである。

エソテリックな基礎と発展の輪郭

エソテリックな基礎に関連して、農業講座の参加者―それは主に農業従事者であり、他の 職業の人もいたが―にとって、「テオゾフィー」(GA9)、「神秘学概論」(GA13)の 知識はいわば義務であった。今日の農業従事者にとって、アントロポゾフィーの文献の「規 範」には、さらに「魂の暦」、「ミヒャエル書簡」(GA26)、及び関連する一連の講演 「共鳴としての人間」(GA230)、さらに「国民経済講座」(GA340)が該当する。生物 学的・力動的農業をめぐる人々の小さなサークルは、一部は自然科学部門とともに、クラッ セン・シュトゥンデのマントラを大切に育んでいる。また北ドイツのハノーヴァー近郊マ リーエンシュタインの農家であり、「農業講座」の共催者であったエルンスト・シュテー ゲマンのために、ルドルフ・シュタイナーによって与えられたメディテーションがある。 それは多くの農家のサークルによって育まれているものでもある。また穀物の種のメディ テーションも、多くの農家にとって大きな意味をもつものである。 農業のような実践的な生活領域にとって恐らく特徴的なのは、ある種の「日常のエソテ リック」をつくりだすことである。それゆえ今日、生物学的・力動的グループにおいて、 そう、勿論、「エーテルの作用」や「形成力」について語ることは珍しいことではない。 「エーテル的なもの」はまさに、多くの生物学的・力動的実践者にとって、一つの現実領 域となった。方法論的には、「行為から認識へ」というモットーが有効である。つまり、 多くの事柄は、それを生き、実践し、そして省みることによって、内実としてはじめて知 ることになる、ということである。調剤の存在は、その良き例である。生物学的・力動的 調剤は―それはハーブ類、肥料、珪素の調合などを少量コンポストに加えるか、リズミカ ルに攪拌させて、畑や植物に噴霧する―それをまず一度無条件につくってみて、用いて、 その効果を直接体験して、そして何が生じたのかを熟慮する人々に、その意味を明らかに する。「瞑想者としての農民」は、今日むしろ、至る所で立てられ、また部門の核心的な 問題である「瞑想的な生活は、ますます大きな負担を強いる日常というものといかに結ば れうるのか」という恒常的な問いに対する一つの理想像である。
農業部門は、ルドルフ・シュタイナーによって他とは多少異なるコンセプトをもったと いう限りにおいて、自由大学における諸部門の集まりの中では特殊な立場を示す。すでに1924年の講座が開かれている間に、「アントロポゾフィー農業の試行グループ」が形成さ れている。この試行グループは当時においては、農業に関わる諸問題と取り組んでいた農 夫たちの普通の連合であった。ルドルフ・シュタイナーはそれに対して、この「グループ」 がいわばシャム双生児のようにドルナッハとともに協働すべきであることを求めた。ドル ナッハに戻り、伝えられているところによると、ルドルフ・シュタイナーは当時、医学部 門代表であるイタ・ヴェーグマンにおもむき、農業部門をも担うことができないかたずね た。ヴェーグマン女史はしかし、仕事の過剰さゆえにそれを断り、ルドルフ・シュタイナー はさらに自然科学部門代表であったギュンター・ヴァクスムートにさらに問いかけ、彼に この課題を委ねることになったのである。1920年代初頭、エーレンフリート・プファイ ファーという一人の協働者がグラスハウスにおり、農業の諸問題ともっぱら取り組んでい た。こうして、なかでも最初の調剤が用意された。戦争の混乱の後、農民たちの小さなグ ループが形成され、ゲーテアヌムでの農業会議が開催された。それと並行して、農民たち によって担われていた「試行グループ」は、より学問的な刻印を受けた「研究グループ」 へ変質していた。「(試行)グループとドルナッハ」の関係は、その意味においてメタモルフォーゼを遂げていたのである。1950年代終りに、自然科学のための一人の部門代表、 生物学者ヨッヘン・ボッケミュールが招聘され、彼がたえず農学をも視野に治めていた。 そして1963年に、栄養と農業のための部門がゲルハルト・シュミットを代表として設立さ れた。1970年からは、自然科学部門の一つのジャンルとしてヘルベルト・ケップとマンフ レッド・クレットによって2001年まで導かれ、2003年から再び独立した部門として活動を 行っている。
生物学的・力動的農業における認識の獲得のために、長い時間がかかった。―学術的に もアントロポゾフィー的にも拡張された自然科学が、その自然科学的方法をもって取り組むテーマを農業が提示したことは、恐らく20世紀の一つの「印」とみなされる。たしか に、生命探求の方法論的な革新は、生命の農業それ自身が出発点となることを、ますます 知らしめている。
こうして、農業という活動領域の革新と貫徹に対する精神の委託は、今日の農業の生活 領域を拡大し、農業の認識を深める現在の部門の責任の視点から、学問的・方法論的に農 業そのものの生活領域における生命の手がかりを得ることにある。この手がかりは、固有 の視点を農業の実体に典型的ではないが一般的な機械化や工業化に対置させるか、または 生命の農業の実りを促進できるように、農業に霊感を吹き込むことができるかどうか、そ の結果を示さなければならないだろう。

生物学的・力動的運動の生活領域

生物学的・力動的運動の生活領域に関わる全ての施設、団体(生物学的・力動的連盟、デ メター連盟など)について、部門はゲーテアヌムの自由大学の一部として、精神的-コン セプチュアルなコンテクストの多くに義務を担っていると感じている。こうして、代表者 グループ(30カ国70名からなる)をとおして、生物学的・力動的な全体の運動をたしか め、維持する意識を共有している。様々な国を訪れることで、グループによってさらにそ れが強化される。運動の精神生活のために、毎年、代表者グループにおいて、年間テーマ が設定され、年に3回発刊される回覧書簡、そしてその頂点として、毎年開催される農業 会議(約600-700名の参加)があげられる。加えて部門の協働者は、今日的な時代の問いがアントロポゾフィー協会にも流れ込むように、BSE、鳥インフルエンザ、遺伝子組替え 技術といった今日的な問題とも取組んでいる。 立ち向かっていかなければならないことは、農業がますます政治的・経済的な規制に従 属させられ、量的な構造の変革に従わざるを得ないというところにある。経済的に引き締 められた時代において、ますます仕事の内的側面が、充分擁護されることが困難なものと なっている。同時に問いや問題はより大きくなっているが、しかしそれを注意深く解きほ ぐすための手段がしばしば欠けている。現代のテンポの速い時代においては、長期間の基 礎作業よりも、短期の、応用可能な成果が期待されるものである。この事態を、部門はい つも意識的に、肯定的な挑戦に向けるべきと考えている。そうして生物学的・力動的な運動のなかで、過去数十年をとおして、自主的な種苗の品種改良が生れた。それは今日、遺 伝子組替の危険に対する最善の答えである。農場の経済的な危機もまた、いかに別様に経 済活動が展開できるかという、新しいイデーをもたらした。このような諸視点を、部門は、 日常の実践に対する背景の知識を提供するために、様々なプロジェクトの中で取上げてい る。この種の挑戦を実現するためには、部門のつながりが不可欠であり、この場合、社会 科学部門との協働がなされた。また他の部門(教育、医学)とともに、農学部門は、より 高度な規制の密度が、独特な生活領域の自由な職能の実践を間接的にいつも困難なものに している「ブリュッセル」の誘発に対して、アントロポゾフィーの職業連盟(ELIANT) である共同の職業領域を横断する連盟(アリアンツ)を支援するために、一つの触媒を形 成する。

革新のディメンジョン

エコロジカルな耕作全体において、しかしまた、生物学的・力動的な農業においてもまた、 内容をもった革新要因の欠如が非難される。パイオニアからの継承において、しばしば、 もはや充分な革新力が体験されていない。新しい大きな構想の中で革新を探し求めるより は、個々人の中で潜在可能性として革新を体験できるように向かわせることは、私たちの 部門の課題とみなされるだろう。同時に革新は生活のなかでも表明できるようにならなけ ればならない。そのために、ブリュッセルにおける農業法規定であろうとも、枠組条件の 影響を受けなければならない。部門、あるいは自由大学の社会的責務は、「固有の確かさ」 にのみ奉仕するべきではなく、社会の前進のためにも貢献すべきである。こうしてみると、 部門は、内的深化のための「空間」と、個々のイニシアチブが広がっていけるような、よ り大きな社会的な空間における「風土」をつくりだすものでありたい。「ドルナッハ」と ともに、公的社会的課題の代理でもある「ブリュッセル」によって、二つの定点が与えら れており、そこに出会いと活動の可能性をもった幅広い領域が広がっている。 生命の農業はさらに拡がっていかなければならない。これが目標である。

文献:
Rudolf Steiner: Geisteswissenschaftliche Grundlagen zum Gedeihen der Landwirtschaft, GA327

出典:
Die Freie Hochschule für Geisteswissenschaft Goetheanum, Zur Orientierung und Einführung, 2008 Dornach, S.89-95
翻訳:石川 恒夫